大和田 建樹(おおわだ たけき)(安政4年〜明治43年)   国文学者、歌人(作詞家)       愛媛県宇和島に生まれる。幼少の頃より神童で知られ、東京大学講師、東京高等師範学校教授等を歴任した後退職、多彩な作家活動を始め、数々の国文学に関する著書、小学唱歌の作詞等を残した。  生涯に詠んだ和歌は一万首を越えると言われている。
                                     
                     <主な小学唱歌の作品>                     
  鉄道唱歌(汽笛一声新橋を‥)、青葉の笛、暁起、
故郷の空、あわれ少女、旅泊 他

田村虎蔵(たむらとらぞう)(明治6年〜昭和18年)   
鳥取県生れ、鳥取範学校卒業後、地元の小  学校勤務、その後東京音楽学校に進学、卒業  後兵庫県師範学校を経て、東京高等師範学校  兼東京音楽学校助教授となり、ここで音楽教  育の改革を行う。   「言文一致」を提唱し、児童の発声法改善  を唱え又鑑賞教育の必要性も強調した。70年  以上も前に、こうした改革を提唱し推進したわが国音教育 の偉大な先駆者でああり、今もなお愛称されている数多く の唱歌の作曲者である。                                          
                       <主な唱歌の作品>   
  大こくいさま、きんたろう、はなさかじじい、大江山  うらしまたろう、うさぎ、一寸法師、菊の花 おひなさま、 お月さま、青葉の笛、鉄道唱歌
うぐいす等   

 

                      新戸部稲造著「武士道」より
                 「熊谷直実の祈り」

  前文略、日本の美術愛好家なら誰でも知っているはずの一枚の絵があります。それは後ろ向きで馬にまたがっている僧侶の絵です。この僧はかって武士だった人で、その名を聞くさえ人々を恐怖に陥れたほどの豪傑でした。須磨の浦の激戦(一の谷の合戦:1184年)と言えば、日本の歴史では最大の決戦ですが、そのとき彼(熊谷次郎直実)は一人の敵に遭遇し、一騎討ちの末これを剛勇の腕に組み伏せたのです。
 このような場合、組み敷かれた者が身分の高い人であるか、もしくは上になっている者に比べて力量の劣らぬ人でなければ、血を流さないのが戦いの作法とされていたのです。この豪傑は、組み敷いている人の名を知りたいと思いました。敵はあくまで名乗りを拒むので、彼の兜を引きむしって見ると、髭もない紅顔の美少年でした。驚いた武士は思わず手を緩め、少年を助け起こし、父親のような声で、この場から立ち去るように言いました。「あなうるわしの若殿や、御母の許へ落ちさせ給へ、熊谷の刃は和殿の血に染むるべきものにあらず、敵に見咎められぬ間にとくとく逃げ伸びびたまへ」。
 この若者は去るのを拒み、双方の名誉のために、この場で首討ちたまえと懇願しました。老いたる武士が頭上にふりかぶる白刃は、これまでに数々の命脈を断ってきた刃でした。だがしかし、今彼の勇猛な心もさすがにひるみます。初陣の功をあげんものと、今日わが子が貝の音に送られて出陣していったその姿がありありと瞼に浮かび、武士(もののふ)の猛き腕も激しく戦 (おのの)きます。老武将直実は「落ちてお命保たせ給え」と懇願するのですが、若武者敦盛は頑として聞き入れる様子のないことを知り、味方の軍兵の近づく足音も迫っているので、彼は叫びます。「だれかの手に落ちるとしたら、私よりさらに卑しき者の手にかかるやも知れず、おお神よ!彼の魂を受け給え!」その瞬間、太刀は空中に閃き、打ち落とされた刃はたちまち若者の血に染まります。
 戦いは終り、熊谷直実は凱旋するのですが、彼はもはや勲功名誉も無に等しく、弓矢の生涯を放棄し、頭を丸めて僧衣をまとい、日の入る西方浄土に救いを念じ、ひたすら西には背を向けじと誓いつつ。その余生を神聖な行脚に捧げたのです。

                                                                上記は日露戦争当時にアメリカで発表され た新戸部稲造の英文による著書の翻訳文(翻訳:飯島雅久)の一部ですが、この「武士道」が当時の欧米人に大きな感銘を与え、日露戦争の日本の終結に多大な貢献をしたと言われています。
 尚、熊谷直実が背負っていた矢から身を守る母衣(ほろ)にたとえて熊谷草、この花に対応させた敦盛草の名が今も伝えられていることはいうまでもないことである。

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