02) 野口雨情作詞・本居長世作曲「十五夜お月さん」
 大正3年(1914)のことと思われますが、野口雨情は家庭事情で少しの間、妻ひろを栃木の実家へ帰して別れて暮らすことになりましたが、雨情と長男の雅夫は水戸駅前の宿屋まで ひろ送っていきました。この別れの晩は月夜で、雅夫は雨情の着物の袖を しっ かり握りしめて、母の後ろ姿をいつまでも見送っていたという。その時の子どもの心境をうたったのが「十五夜お月さん」です。雨情の童謡には、思っていることが口に出せない子ども心を代弁して、実によく言い表したものが多くあり、この詞もそのひとつです。     作曲の本居長世は明治18年(1885)東京府下谷区御徒町に生まれますが、彼は国学者として著名な本居宣長の6 代目の子孫に当たります。  生後1年で母と死別。養子であった父が家を出たため、やはり国学者であった祖父、本居豊穎(もとおり とよかい)に育てられました。長世は祖父の期待に反して音楽家を志すようになり、明治41年(1908)に東京音楽学校本科を首席で卒業、日本の伝統音楽の調査員補助として母校に残ります。なお、同期には作曲家となる山田耕筰がいました。明治42 年(1909)器楽部のピアノ授業補助、翌明治43年(1910)にはピアノ科助教授となり、ピアニストを志しますが、指の怪我で断念。このときの教え子に中山晋平や弘田龍太郎がいました。大正7年に(1918)「如月社」を結成。この如月社で本居長世の作品を独唱したのが美しいテノールの音色を持つバリトン歌手増永丈夫で,増永は東京音楽学校声楽科出身で、慶應義塾普通部の頃から本居長世のところに出入りしていました。(増永丈夫は藤山一郎の本名)、また、本居長世は琴の宮城道雄や尺八の吉田晴風らの新日本音楽運動にも参加、洋楽と邦楽の融合を模索した作品もいくつか残しています。