04) 野口雨情作詞・本居長世作曲「赤い靴」
                       【赤い靴の女の子「きみちゃん」の実像】  
 
  「赤い靴」は大正10年に野口雨情が作詞し、大正11年に本居長世が作曲した童謡の名曲 ですが、昭和48年(1973)11月北海道新聞の夕刊に「赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」という岡そのさんという人の投稿記事が掲載されたのをきっかけに、当時北海道テレビの記者だった菊地寛さんの5年余りの歳月をかけた追跡調査で「女の子」の実像が明らかにされました。  女の子の名は「岩崎きみ」といい、明治35年7月15日、日本平の麓、現静岡県清水市で出生、幼児期に家庭事情により母親の岩崎かよに連れられて北海道に渡りましたが、間もなく母親に再婚の話があり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場に入植します。当時の開拓地の想像を絶する生活の厳しさから、母親かよは やむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。 かよと鈴木志郎は開拓農場で懸命に働きますが、静岡から呼んだ かよの弟「辰蔵」を苛酷な労働の中で亡くし、また、開拓小屋の火事などで努力の甲斐なく、失意のうちに札幌に引 き上げます。 明治40年のことです。  その後、 鈴木志郎は明治41年に北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけますが、同じ頃この新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになります。  雨情は明治41年に長女を生後わずか7日で亡くしています。おそらくそんな日常の生活の中で、かよは世間話のつれづれに、自分のお腹を痛めた女の子を外人の養女に出したことを話したと思われます。「きみちゃんはアメリカできっと幸せに暮らしていますよ」。こんな会話の中で、詩人野口雨情の脳裏に「赤い靴」の女の子のイメージが刻まれ、この詩が生まれたのではないかと推察しますが、雨情はこの頃 、夭折した長女を「・・・生まれてすぐにこわれてきえた・・・・」と「シャボン玉」に詠ったと伝えられています。  後年、赤い靴の歌を聞いた母かよは、「雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ。」とつぶやきながら、「赤い靴はいてた女の子・・・」と、よく歌っていたと伝えられていますが。その歌声はどこか心からの後悔と悲しみに満ちていたようです。     
 ところが、赤い靴の女の子は異人さんに連れられていかなかったのです。母かよは、死ぬまで、きみちゃんはヒュエット夫妻とアメリカに渡り、幸せに元気に暮らしていると信じていました。しかし、意外な事実がわかったのです。きみちゃんは船に乗らなかったのです。 ヒュエット夫妻が任務を終えてアメリカへ帰国しようとしたとき、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれた結核に冒され、身体の衰弱がひどいために長い船旅が出来ず、東京のメソジスト系の教会の孤児院に預けられたのです。薬石の効無く一人寂しく幸薄い9歳の生涯を閉じたのは、明治44年9月15日の夜でした。  きみちゃんが亡くなった孤児院、それは、明治10年から大正12年まで麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院でした。今、十番稲荷神社のあるところ、旧永坂町50番地にあったこの孤児院は、女子の孤児を収容する孤女院として「麻布区史」にも書かれています。   三歳で母かよと別れ、6歳で育ての親ヒュエット夫妻とも別れたきみちゃんは、ただひとり看取る人もいない古い木造の建物の2階の片隅で病魔と闘いつづけました。熱にうなされ、母かよの名を呼んだこともあったでしょう。温かい母の胸にすがりたかったでしょう。それもできな いまま、秋の夜、きみちゃんは幸薄い9歳の生涯を閉じたのです。母かよがきみちゃんの幸せを信じて亡くなったであろうことが、せめてもの救いでした。  
  野口雨情 明治15年(1882)〜昭和20年(1945) 詩人、童謡・民謡作詞家。本名は野口英吉。茨城県多賀郡磯原村(現・北茨城市)出身。廻船問屋を営む名家(楠木正季が先祖と伝えられているが不明)の長男として生まれる。東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し、坪内逍遥に学ぶが、1年余りで中退、詩作を始める。明治38年(1905)処女民謡詩集『枯草』を自費出版。明治40年(1907)三木露風、相馬御風らと共に早稲田詩社を結成するが、その後暫く詩作から遠ざかる。この時期、雨情は北海道に渡って新聞記者となっていた。『小樽日報』に勤めていたときには同僚に石川啄木がおり、交友を結ぶが、啄木が先に退社したため、席を並べたのは2ヶ月ほどであった。やがて雨情も明治42年(1909)に北海道を離れ、いったん帰郷した後再度上京する。  大正8年(1919)詩集『都会と田園』により詩壇に復帰、斎藤佐次郎により創刊された『金の船』より童謡を次々と発表。藤井清水や中山晋平や本居長世と組んで多くの名作を残し、北原白秋、西条八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。 他方童謡とともに盛んとなった「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、昭和10(1935)には日本民謡協会を再興し、理事長に就任している。日本各地を旅行し、その地の民謡を創作した。また同じ年の1月、仏教音楽協会も設立され、雨情は評議員に推薦される。仏教音楽の研究に加え、新仏教音楽の創作や発表、普及にも力を尽くした。  昭和18年(1943)軽い脳出血で倒れて後は療養に専念。昭和20年(1945)疎開先の宇都宮市近郊で死去。 代表作は『七つの子』、『赤い靴』、『青い目の人形』、『シャボン玉』、『こがね虫』、『あの町この町』、『雨降りお月さん』、『証城寺の狸囃子』など枚挙にいとまがない。他に『波浮の港』『船頭小唄』などの歌謡曲の歌詞もある。