童謡とは何か

 童謡とは大正17年(1918)以降に、子供に歌われることを目的に作られた創作歌曲のことをいいますが、学校教育用のためにに創られた文部省唱歌や、自然発生的に子どもの遊びの中で生まれ、遊びの動きを伴って伝えられてき「たわらべ歌」とは異なるものです。  
 
古くは子どもの歌といえば、いわゆる「わらべ歌」でしたが、明治の文明開化で、それまでの日本にはなかった西洋音階( ド レ ミ ファ ソ ラ シ ド )の音楽が入ってきて、学校教育用に「唱歌」と呼ばれる多くの歌が作られました。この歌はメロディーの力を利用して国語の文章を暗誦させたり、修身(今の道徳)の徳育を徹底させる目的、それに日本の風景の素晴らしさを教えるといったもので、初期の唱歌は主に文語体(※印参照)で書かれていましたので、小学校4年生までが義務教育だった頃には、子どもに歌詞の意味を理解させるのが大変で、例えば大和田建樹作詞の「青葉の笛」(※一の谷の戦破れ、討たれし平家の公達哀れ‥)などは、文章も難解ですが、「平家物語」が理解できていないと歌詞の真意がわかりませんので、この時代の先生は可成りの時間をかけてこの唱歌の歌詞の意味を教えておられたようで、私も亡き母親から、かっての先生が、この歌の歌詞の意味を長時間解説された様子を聞いています。
  さて、それまでは「わらべ歌」という意味で用いられてきた童謡に、「子どものために創作された芸術的な香りの高い歌」という新しい意味付けをしたのは、夏目漱石の門下で、大正中期には既に一流の作家として評価されいた鈴木三重吉ですが、彼が子ども向けの創作に力を注ぐようになったのは、愛娘 鈴さんの読み物を探しに書店へ立ち寄った時に見た、子どもの読み物の質・量のあまりの貧しさに気づいたのがきっかけだったと伝えられています。三重吉は大正7年7月、《童話》で森鴎外、島崎藤村、芥川龍之介、徳田秋声、森田草平、《童謡の作詞》では北原白秋、西条八十、三木露風等、《作曲》では成田為三、草川信、弘田竜太郎、《童画》では清水良雄、深川省三、鈴木淳等の協力を取り付け、児童雑誌『赤い鳥』の創刊を契機に「芸術性豊かで、子供たちの美しい空想や純な情緒を傷つけないで、これを優しく育むような子ども向けの作品」を子どもたちに与えることを目指しましたが、こうしたねらいで創られた純麗な子どもの歌を「童謡」と名付けましたし、更に、当時は「子供たちが書く詩」も童謡と呼んでいましたので、「童謡」という語には明治43(1910)年代以降、@子供たちが集団的に生み出し、伝承してきたわらべ歌、A大人が子供に向けに創作した芸術味豊かな歌、B子供たちが書いた児童詩、という三つの概念がありました。こうした概念は時代の変遷に伴って変化したり混在したりしましたが、今日ではAの意味で定着しています。最近ではその概念は大きく広げられ「童謡=子供の歌」としてとらえ、唱歌、わらべ歌、抒情歌、さらにテレビ・アニメの主題歌など全ての子供の歌を「童謡」という語で括ってしまう傾向がありますが、大人が子どものために創作した芸術性豊かな歌を 童謡として理解するのが正しいと思います。
  「童謡」は大正7年11月創刊の児童雑誌『赤い鳥』の中で誕生したといえますが、この雑誌に掲載された童謡には当初は曲(メロディー)はついていませんでした。「赤い鳥」創刊年の11月号に西条八十の童謡詩として掲載された『かなりや』は、翌年の大正8年(1919)の5月号に成田為三作曲による楽譜を付けて再び掲載されました。これがメロディーを伴った童謡の誕生でした。
  この童謡誕生については平成16年6月6日のNHKテレビ「その時歴史が動いた」でも紹介されましたが、「浜辺の歌」の作曲で知られる成田為三が、西条八十の童謡「かなりや」の詞(童謡)に曲をつけて小学生の子どもに歌を歌わせているという噂を聞いた、「赤い鳥」に関わった作家の一行が、成田の勤める小学校まで出かけ、実際に彼の指導した子どもたちの歌声を聞き、その澄みきった美しい歌声にすっかり感動し、涙を流して聞いたと伝えられていますが、音楽の大きな力を認識した三重吉は、この歌声をレコード化して全国に広め、それ以降の「赤い鳥」には、作曲家の協力を得てメロディーを伴った童謡を楽譜付で発表するとともに、優れた作品はレコード化して全国に広める努力を積み重ねていきました。  
  これまでの難解な唱歌や低俗な流行歌ではなく、「真に子どものための歌、子供の心を歌った歌、子供に押しつけるのではなく、子供に自然に口ずさんでもらえる歌を作ろう。」という鈴木三重吉の考えは多くの同調者を集め、童謡普及運動、あるいは、これを含んだ児童文学運動の一大潮流となっていきました。
 『赤い鳥』の後を追って、斎藤佐次郎の『金の船』など多くの児童文学雑誌が出版され、最盛期には数十種に及び、中でも『赤い鳥』の北原白秋、『金の船』(後『金の星』と改題)の野口雨情などが多くの童謡の詩を手がけ、こうした子どものための詩に、当時の日本を代表するトップレベルの作曲家たちが競って作曲をしたことで、大正後半には童謡の黄金時代を迎えましたが、こういった子どもの童謡を生み出すために、大の大人の作詩家・作曲家が、このように心血を注いで芸術作品を生み出した例は他の国にはありません。  
  特に、詩人では北原白秋・野口雨情は、『赤い鳥』から『童話』へ移った西条八十とともに三大詩人と呼ばれて、多くの優れた童謡の詩を残していますし、作曲で弘田龍太郎、中山晋平、本居長世、草川進等が、子どもの心を的確に捉えた名曲を付けたことで、今でも歌い継がれているたくさんの童謡の名曲が残されています。 大正7年の鈴木三重吉の呼びかけではじまった昭和初期(満州事変)までの童謡は、作詞・作曲両面で、伝統的なわらべうたが伝えてきたような子どもの童心性に基づき、日本の伝統的な音階も考慮した、子どもにとってやさしく、思いやりがあり、しかも何年経っても持ちこたえられるような芸術作品を目指す努力がされていることがよくわかりますが、この時代の童謡には簡易な歌であっても、童心性に基づく芸術作品を創っていくという理想があったことから、いつまでも心に残る名作が生まれたのだと考えられます。この時代の童謡を歌う時には、音楽的な表現について細心の注意を はらい、歌詞の意味やメロディーの良さ深さを味わって歌うことが欠かせないように思われます。