03) 清水かつら作詞・弘田龍太郎作曲「叱られて」
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「口には出さねど目になみだ…」とか、「ほんに花見はいつのこと…」など、単に童謡の少女趣味を越えた、たまらなく淋しいエレジーで、昔の人なら誰でも一度はこのような思いをしたことがあるだろう。弘田龍太郎の曲は、詞の淋しさを充分表現して実に美しいのです。
長調で民謡風なメロディーを用いているため、童謡といっても子供がちゃんと歌うのはかなりむつかしく、歌唱力のある人がじっくり歌う芸術歌曲の趣きがあします。
作詞の清水 桂(かつら)は東京の深川で生まれ、京華商業学校を経て、神田の小学新報社で雑誌『少女号』 などの編集の仕事をしながら、自ら創作活動を続け「靴が鳴る」などの作品を発表。その後関東大震災の被害にあい、継母の実家である現在の和光市に身を寄せ、昭和26年(1951)
53歳で亡 くなるまで 童謡詩人としてたくさんの作品を創り続けました。 作品に、「叱られて」、「あした」、「靴が鳴る」、「雀の学校」、「みどりのそよ風」等があります。
作曲の弘田 龍太郎は明治25年(1892)高知県に生まれ、一絃琴の名手であった母親から音楽的才能を受け継いだと言われています。 明治43年(1910) 東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)ピアノ科に入学し、本居長世に師事。在学中に歌曲『昼』 を発表。文部省唱歌の『鯉のぼり』(甍の波と‥) は作者不詳とされてきましたが、弘田龍太郎が在学中に作曲したものと言われています。大正3 年(1914)東京音楽学校を卒業。大正5年(1916)同研究科卒業後も同校授業補助となり、さらに文部省邦楽調査委員を委嘱された。やがて宮城道雄や本居長世らの新日本音楽運動に参加し、洋楽と邦楽の融合を模索しました。 大正7年(1918)鈴木三重吉によって児童雑誌『赤い鳥』 が創刊されると、やがて 「赤い鳥運動」に参加、北原白秋と組み、多くの童謡を作曲しました。 昭和3年(1928)文部省在外研究生としてドイツに留学、ベルリン大学で作曲とピアノを研究しました。帰国後、東京音楽学校教授となったが作曲活動に専念するために辞任、以後作曲活動のかたわらNHKラジオ子供番組の指導や児童合唱団の指導・指揮にあたりました。昭和21年(1946) 日本音楽著作権協会監事に就任、晩年は長女夫妻が創設した幼稚園の園長となり、放送講習会やリズム遊びの指導にあたりました。昭和27年(1952)60歳で亡くなりました。 童謡の代表作に 「鯉のぼり」、「浜千鳥」、「叱られて」、「雀の学校」、「春よこい」 「靴が鳴る」などがあり、歌曲に「小諸なる古城のほとり」、オペラに「西浦の神」 仏教音楽に「仏陀三部作」などがあります。 |