音の回想2《青葉の笛》

 子どもの頃に母が口ずさんでいた歌で、特に印象に残っているものは、わらべ歌の『いちばんはじめは』と小学唱歌の『青葉の笛』である。
 テレビもラジオもなく、読書もままならなかった母の子どもの頃には、お手玉や縄飛びなどの動きを伴った遊び歌の伝承は、貴重な子どもの文化であったろうし、小学唱歌も親や年上の子から伝えられ、学校で習う前に完全に暗唱していたというから、これも確実に子どものレパートリーになっていたようである。
 ところで、私の子どもの頃は、その殆どが第二次世界大戦と重なっていたことから、物資の不足は限界に近い状態だったし、特に私の家が非農家だったことから、毎日の食料を確保する母の苦労は並大抵のものではなく、草履作りの内職をしたり、どうしてもやりくりがつかない時には、なけなしの着物を買ってもらったりして家計を補っていた。
 そんな状態が毎日続いていたが、母はいつも明るく、持ち前の威勢のよさで頑張っていた。このふたつの歌は子どもの頃に何回となく聞いていたので、 今でも歌詞やメロディーをはっきり覚えている

いちばんはじめは
番はじめは一の宮、二は日光東照宮、三は桜の宗五郎、四また信濃の善行寺
五つ出雲の大社、六つ村々鎮守様、七つ成田の不動様、八つ大和の法隆寺
九つ高野の弘法さん、十は東京二重橋、・・・・・以下省略
青葉の笛
) 一の谷の軍破れ、討たれし平家の公達哀れ
  暁寒き須磨の嵐に、聞こえしはこれか青葉の笛

2) 更くる夜半に門をたたき、我が師に託せし言の葉哀れ
  今わの際まで持ちしえびらに、残れるは花や今宵の歌

 私は子どもの頃には思いもつかない、音楽教育にかかわることになったが、今から思うと母の歌う『いちばんはじめは』はスキップの効いた威勢のよいものだったし、『青葉の笛』はかなり自由に、民謡のこぶしのように微妙に音を揺り動かして表情豊かに歌っていた。
 ところで、10年ほど前に町内の自治会長がまわってきて、地域の生活にかかわる世話をしなければならない羽目になったことがあったが、中でも儀式的な行事を取り仕切るのに閉口した。ある時、念仏のリードをしなければならないことになり、仕方なしに母に教えてもらったことがあった。その時、母の念仏には声明や日本民謡独特の節回しが受け継がれていることに気づいた。これは普通の人にはなかなか受け継がれていないものだと思った。
 母は曹洞宗の寺の次女に生まれたが、師範学校を卒業してから、少しの間、小学校の先生をしていたので、幾分かは西洋音楽の教育を受けた筈である。しかし、子どもの頃にいつも聞いていた日本音楽の影響が強く残り、あの独特な『青葉の笛』の歌い方になったように思う。母の話によると、祖母は資産家の出で、小さい頃から三味線などのお稽古ごとをやっていて、母の子どもの頃には、端歌の師匠をしていたので、いつも『春雨』や『越後獅子』などの曲が聞こえていたという。祖母は三味線の名手だったとも聞いた。したがって、日本の伝統音楽を聞いて育った母は、知らず知らずのうちに日本的な音楽の感性を身につけたものと思う。
 着物に袴という新任教師時代の颯爽とした母の写真を見たことがあるが、昭和のはじめ頃の谷間の小さな尋常小学校の教室で、オルガンを弾きながら、あの独特な節回しで、子どもたちに『青葉の笛』を歌って聞かせていたのだと思う。
 串田孫一氏の『分教場のバッハ』という随筆を読んだことがあるが、母の姿も当時の自然に溶け込んだ一幅の絵画だと思った。

  大和田健樹作詞・田村虎蔵作曲:小学唱歌『青葉の笛』

(上の音は母ならこの程度の伴奏を付けて弾いたのではないかという想像音です。)

上のカットは中津津川市在住の荒田明子さんによるものです。

(上記曲名をクリックすと演奏が聞けます)

尚、最近この曲が明治39年に小学唱歌(4年生)に登場した時の伴奏楽譜を入手しましたので
原曲の通り忠実に再現してみましたので、こちらの演奏音を聞いてみて下さい。

小学唱歌「青葉の笛」原曲クリック→

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