《音の回想18》春川の思い出
 春川(チュンチョン)はソウルから北東へ約百キロほど入った漢江の上流にあり、韓国では文教都市、風光明美な湖畔の街として知られている。私はこの街を4回ほど訪れているが、美しい自然とこの土地の人々の温かい人情(心づかい)がいつまでも忘れられない。
 1972年の確か秋頃だったが、今は亡き、春川教育大学音楽教授の朴 在薫先生から一通の手紙が届けられた。その内容は、私の音楽教育に関する論文や教育雑誌に発表した教育実践記録を読まれた感想とともに、韓国の音楽教育の困難な実情を訴えられ、特にリコーダーの指導を援助してほしいというものだった。その後も何度か、きちんとした筆跡で旧漢字を使ったお手紙をいただいたが、その度に在薫先生の音楽教育に賭ける情熱に圧倒される思いがした。
 一方、当時の日本では韓国の国内事情がよくわからず、日韓にかかわる不幸な事件も起きていたことから、韓国のしかも38度線に近い地点まで出かけて、音楽教育を応援することは極めて危険なことだとして、私の周囲の人は殆どが猛反対であった。しかし、朴先生の何通かのお手紙から、教育に対する情熱とともに、大学生や江原道の教育を思いやる教育者としての誠意と人間的な温かさ感じとり、この人のやることなら大丈夫だという確信を得た。
 考えに考え抜いた末、私は1973年の5月連休にはじめて韓国を訪れた。あの時の情景は今でもはっきり憶えている。
 非常事態を思わせる金浦空港の厳重な検問、行けども行けども街が現われないバスの旅、道路脇の塹壕から向けられていた拳銃、途中でバスを止められて受けた兵士の厳重なボディーチェック、それでいてのどかな牛車のすれ違う姿も見えた。朴 在薫先生ご夫妻に付き添われた、およそ3時間のバスの旅は緊張そのものだった。しかし、やっとの思いで到着した春川は、新緑に映える美しい湖畔の街だった。
 この時の私の講演は春川教育大学の付属国民学校と聖心女子大学の二会場だったが、印象に残っているのは、緑したたる広大なキャンパス(グランド)で出迎えてくれた音楽科の学生たちが、外国人で、しかも反日感情が極度に高まっていた状況の中で、初対面の私を笑顔で親しく挨拶をしながら出迎えてくれたことだった。あとから聞いたことだが、朴先生が講義に中で私のことを詳しく話しておいて下さったので、ここの学生とは初対面でも、気持ちが通じ合えたようだった。
 ここでの講演は、どの会場でも真剣そのもので、私の話しに受講者から積極的な質問が加わり、いつも予定時間を超過したようだった。朴先生は私の当時の音楽教育に関する著書を徹底して読んでおられたので、時々注釈を加えたり、時にはユーモアを交えたりして、同時通訳に近いテンポで話しを進めて下さった。この時の私の講演の感想など  が春川教育大学の学報に掲載さているが、その記録によると、私が体験を通して話した@子どもの側に立った地道な人間教育としての音楽教育が大切なこと。
A子どもが生涯音楽を通じて生活を豊かにしていくような音楽教育が大切であるこ。
 このふたつの主張が大きな印象を与えたこと、更にこれを機会に江原道のリコーダー指導は大きく前進するだろうというものだった。実際に、現在では、この当時、春川教育大学音学科の学生だった先生方を中心にして、この面での指導が韓国の先端をいっていることは確かだと思う。
 2回目に春川を訪れたのは1975年のことだった。この時には当時の韓国ではまだ聞くことが出来なかったリコーダーの生演奏を聞いていただくことが大きな目的だった。ところが、韓国ではこの頃、日本人学生が反政府運動に関わって逮捕されたり、在日韓国人の文 世光が大統領襲撃事件を起こして婦人を殺害する事件があったりして. 相変わらず韓国全土の反日感情は厳しさを増していた。しかし、朴先生の音楽教育に対する情熱は困難な政治情勢を乗り越えて、この演奏会を実現したのだった。
 この時の演奏会は8月21日と22日の2日間にわたって、春川の江原道文化会館で実施され、私が引率した教え子の中津川リコーダー合奏団7名と、2年前に私も指導し、その後もカセット・テープなどの資料を送って応援してきた春川教育大学音楽科生徒との合同演奏の形だった。韓国の学生はこの演奏会を目ざして猛練習を積み重ね、短期間に驚くほどの進歩を示し、この演奏会に参加したが、彼等は同じ世代の日本の学生と音楽を通じてわかり合えたことに感動したし、私の教え子たちも純粋で誠意溢れる韓国の学生に接して心洗われる思いがしたのだった。
 この時の演奏会では、ステージの全面を小・中学生が、この日のために育てて持ってきてくれた膨大な量のカーネーションで飾り、更に地元の盆栽造りの名人から借りた植木類も所せましと並べられていた。ここのステージは今からすれば決して立派なものではないが、土地の人々の誠意溢れる飾りつけのすばらしさ、めったに聞けないリコーダーの生演奏を聞き逃すまいとする聴衆が集って、熱気に満ちた雰囲気があった。
 当日の演奏曲目は合同演奏で易しく楽しい小品を演奏し、中津川のメンバーでルネッサンスやバロックの名曲、それに朴先生の弟で延世大学作曲科主任教授で世界的な作曲家でもある朴 在烈氏に作曲していただいたリコーダー5重奏曲(現代曲)なども演奏した。この演奏会では韓国の民族色の強い曲を難曲か用意していったが、当然なことながら、こうした曲には強い拍手があった。この演奏会での私の失敗は、韓国の国民歌謡とまで言われている『望郷の歌』と『麦畑』の歌をリコーダー合奏の伴奏で会場の中学・高等学校の生徒に歌ってもらった時、日本の生徒を想定して、声を引き出すために指揮を大振りにしたところ、もの凄い声量の歌声が会場に響きわたったことだった。後からわかったことだが、こちらの生徒は日頃、声をよく出して歌う習慣がついているようである。しかし、これは同じ音楽を通じ、国境を越えてわかり合えたときの感動の高まりが声に表れたと理解するのが本当かも知れない。
 前に来た時にも強く感じたことだが、この地方の人たちは純粋で、本当に面倒見がよく、何でも誠意をもってやって下さるのに驚かされる。日本ではもうこんな土地は見あたらないように思うし、タイムカプセルを逆にして、私の小学校時代にあったような、温かい人間関係を思い出させてくれた。
 食べる話しで恐縮だが、韓国の民族料理は、はじめてこの国を訪れる者にはなかなかなじめず、特に地方へ入れば入るほど口に合うものが少なくなってくる。しかし、朴先生や春川の人たちは、このことがよくわかっていて、私たちの食事の配慮もほんとうにゆき届いたものだった。演奏会前夜だったと思うが、春川市長主催の夕食会に招かれた時のことである。テーブルに並べられた数々の料理の説明を聞いて恐れ入ったのであるが、説明はおよそ次のようなものだった。
 黒鯛は釣の得意な先生がオートバイに乗って、ここから百キロ以上もある黄海の海岸で釣ってきてくれたもの。コップに入っている白い飲み物は、なかなか見つからない朝鮮人参の十年草を山で見つけてきて、その汁をしぼったもの。各種の料理もこの土地の腕利きが調理したもの。力政宗の酒とキッコーマン醤油は日本に旅行した人に頼んで、味の合うものを買ってきてもらったということだった。
 朴先生の家でも夕食をご馳走になったが、奥様が日本から料理の本を取り寄せて、ご主人の在薫先生に味のモニターをさせながら、約一ヵ月かかってやっと合格になったという、おいしい肉料理をいただいて感激した。
 話しは少し戻るが、演奏会が終わった時、一人の校長先生が、はっきりした日本語で『申し訳ないことですが、韓国の子どもたちは、皆さんがこの花を日本に持ち帰ってくれると思っているので、子どもの動ける範囲の所へ捨てないようにお願いします。』と言われた。これには少々困ったが、幸いこの地の先生の計らいで車を借り、ソウルの近くまで運んでいった。しかし、純真な子どもの気持ちを考えるとどうしても全部を捨てることが出来ず、その一部をメンバーで手分けして日本へ持ち帰った。
 私は、この春川をもう一度訪れ、この時は大学生のリコーダーアンサンブルの実技指導に時間をかけた。この時の学生の力は日本の学生とあまり変わらないレベルに達していたように思う。
 朴在薫先生と私は、その後も緊密な関係を続け、お互いの家に泊まって家族や家庭経済の話題まで話し合える間柄になったが、1980年の夏休みに注文津(チュムンチン)国民学校で開かれたリコーダー研究会で合ったのが最後になってしまった。朴先生は翌年の新年早々に癌でこの世を去られてのである。亡くなられる前に『もう一度田中先生に合えないかなー』とつぶやかれたと、弟の在烈氏からの手紙で知らされた。
 その後も私は、朴先生の意思を受け継いだ先生方の依頼で、韓国各地の教育大学や国民学校(初等学校)の先生方のための講演や実技指導に出かけた。日本で授業のない夏休みや冬休みの短い期間の韓国滞在なので、十分なことはできないが、それでも音楽教育を通じて、日韓親善に尽くしたことは確かだし、影響は微々たるものかも知れないが、私がリコーダーを教えた先生方が韓国全土で、私なりの指導法を更に発展させ、子どもの側に立った生きた音楽教育を進めておられるものと思う。私は13年前に朴 在薫先生の墓参をしたころがあるが、ご主人の研究生活を献身的に支えてこられた、あのやさしい奥様もこの時既にこの世を去られ、同じ場所の墓地に丁重に葬られていた。在薫先生の墓の横には先生の生前の業績を称える顕彰碑が建てられおり、この碑の寄贈者の中に、韓国の音楽教育関係者と並んで、誰かが私の名前もはっきり刻みこんでおいてくれた。
 朴 在薫先生がこの世を去られてから、すでに17年の歳月が流れ、私の韓国訪問も今年で26年目を迎えるが、春川には、先生の笑顔と重なって終生忘れ得ぬ美しい思い出が残っている。

 
上記の文章は韓国江原日報社 月刊『太白』1989年5月号に金公善氏の翻訳で掲載されたものの原文を年号のみ修正したものです。
韓国の国民的歌曲『 麦畑 (ポリバ) 』

朴 在烈 作曲 リコーダー5重奏曲より
Lullaby,Korean Dance

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