《 音の回想27 ホッチョセ源流考

この項については新たな発見があいつかあり、下記の新しい追加事項も参照されたい。

『ホッチョセ』とは中津川に伝えられている民謡の曲名のことだが、初夏の頃に山や谷間で聞かれる山時鳥(やまほととぎす)の鳴き声が、この土地の人には『ホッチョカケタカ 』と聞こえ、これが短くなって、『ホッチョセ』になり、この曲名になったと言い伝えられている。
 民謡というものは、一般に民衆の生活の中で信仰、労働、娯楽などの目的で生まれ、生活習慣のように歌い継がれてきたものだが、文章化した記録は殆どなく、その源流を探ることは極めて困難な作業である。
 私は地域の民謡にも強い関心を持ってきたが、ある時、篠笛でいつも吹いていた『小諸馬子歌』と中津川の『ホッチョセ』とが旋律的に極めて類似性が高いことに気づいた。
 音の比較を紙面ですることは困難だが、旋律のおよその骨組みを西洋音階で示すと、小諸馬子歌は『ソ ラー ド レ− ド レ ミ− レミレドー レドラ・・・』であり、 ホッチョセは『ソ ララ レ− ド レミ レ ドレドラ』となっていて。曲のテンポを同じにして演奏してみると誰が聞いても同じような曲に聞こえる。
 最近では民謡の学問研究も進み、『奄美六調』を源流とする『佐渡おけさ』の系統と『小諸馬子歌』を源流とする追分節の系統については、およその伝承経路がわかってきたことから、『ホッチョセ』が『小諸馬子歌』が変化して出来たものとすれば、ほかにも何か手ががりがあるいうに思えるのである。
 町田佳声氏の『民謡源流考』によれば、江戸時代に碓氷峠の追分宿には旅篭71戸、茶屋18戸があり、一茶の句に『三味線に道失うや落雲雀』があり、西鶴が『都を忘れるほどのにぎやかさ・・・』と書き残していることなどから、ここには、音楽的にも可成り専門的な技術をもった接客女性がおり、この地の馬子歌が三味線を伴った追分節に変化していく条件は十分備わっていたということである。
 もう30年も前に古い『ホッチョセ』の録音を聞いたことがあるが、メロディーに重ねて馬子歌と同じように尺八の演奏が重なり、メロディーを支える専門的な三味線の伴奏がついていた。
 ホッチョセは歌詞も旋律もなかなか味わい深く、格調高い民謡である。こうした歌詞を生み、メロディーを価値あるもに再創造した背景には、中山道や東山道の宿場町としての地理的条件に加えて、中津川の先人たちが、常に中央の優れた文芸をこの地に伝え、地域文化の向上に尽くしてきた歴史がある。
曲名の横の●印をクリックすると中津川民謡保存会の演奏が聞けます。

『 ホッチョセ 』→(クリック)

1)ここはナ−山家じゃ お医者はないで ア ホッチョセ ホッチョセ
  可愛い殿さを見殺しに ア ホッチョセ ホッチョセ

2)樣とナ− 旅すりゃー 月日も忘れ ア ホッチョセ ホッチョセ
  鴬が鳴く 春じゃそな ア ホッチョセ ホッチョセ

3)遠いナ− 畦道 ようきてくれた。 ア ホッチョセ ホッチョセ
  裾がぬれつら豆の葉で ア ホッチョセ ホッチョセ

4)美濃のナ− 中津を出て行く時にゃ ア ホッチョセ ホッチョセ
  三度見返す恵那の山 ア ホッチョセ ホッチョセ

 碓氷峠の追分宿で、この土地の馬子歌が俗謡化し、ごぜの弾く三味線を伴って中津川に伝えられ、長い時間を経てこの土地の人々によって再創造され、新しい価値を生み出したのが『 ホッチョセ 』の民謡ではないかと考えるのである。この民謡も『佐渡おけさ』が全国に知られるいうになった大正時代の民謡ブームの頃には今の正調の民謡の形が整い、全国的に知られるようになったということである。
 最近読んだ地元の民俗芸能保存会の記念誌にも、 ホッチョセ の元の歌は馬子歌から来ているらしいという記述があった。

<追加事項>

  中津川民謡「ほっちょせ」の由来について

1)文書等に残されている記録から類推されること。

・平成元年10月2日に中津川文化会館主催の市民大学講座で「歌い継がれたふるさとの心」のテーマで地域のわらべ歌や民謡を扱ったことがあったが、その時調査した過去の 文書の中に、中津川に伝えられている民謡「ホッチョセ」は中山道経由でこの地に伝えられ、もうひとつの民謡「トコセ節」は長野県の伊那地方から伝えられ、中津川で歌詞が替え歌にされたものという記録がのこされていた。
・ 日本の民謡西[日本編]社会思想社(中津川市立図書館)の記述の中に、この唄はもともと、木曽街道へ入ったら斧を知らない森林から「"ホッチョカケタカ ホッチョカケタカ"」と啼くホトトギスの声が、いつしか馬の背に揺られる旅人相手の街道を上り下りする馬子たちが歌った馬子歌となった。という記述があること。

2)メロディーの類似性から類推されること。
・ 上記二つの記述も考慮して、メロディーの類似性を探ってみると、今から40数年前に聞いた「ホッチョセ」(楽譜1)と「小諸馬子歌」(楽譜2)の冒頭が極めて近いことに気づくが、中山道の小諸宿場辺りで馬子たちが覚えた、この歌の頭の部分のメロディーが中津川に伝えられ、替え歌としての歌詞がこの地の人たちによって付けられた考えられる。  
  尚、小諸馬子歌を中津川の地に伝えた者として、越後を拠点とて「浄瑠璃」、歌舞伎の下座音楽、民謡等を広範囲に伝えた瞽女の瞽女の動きも否定は出来ないが、東濃地方の瞽女の動きを詳細に調べた「岐阜県東濃地方の瞽女の仲」(吉川弘文館)にはには中津川まで移動した記述はないが、信濃の国まで移動していた越後の瞽女と繋がりを持たない、恵那の久須美に拠点をお置く瞽女たちが中津川の千旦林まで移動していたという記述はある。

3)「ホッチョセ」と源流と類推される「小諸馬子歌」について 「小諸出てみりゃ 浅間の山に 今朝も煙が 三筋立つ」 で知られるこの馬子歌のルーツは、中山道の追分宿の周辺に幾つかあった御用牧場で働いていたモンゴル人が後に日本に帰化し、彼らが歌い続けてきたモンゴルの民謡のメロディーに土地の人が日本語の歌詞を付けて唄ってきた正調「小室節」がこの民謡の原曲で、千曲川を下り、越後の国を経由し、日本海を北前舟で渡った北海道の地で「江差追」に変化したことは誰もが知ることだが、陸続きの中山道を経由して中津川の地に、この民謡の頭の部分が伝えられ、変化して定着したと考えても不自然ではないように思われる。 更にこの民謡の歴史を遡ってみると、奈良時代の桓武天皇の時代に、この天皇の皇后が百済王室の末裔であったこともあって、北部朝鮮半島より牡牝2頭の汗血馬(古代中国の歴史的名馬)を飼育人付で贈られ、飼い主のモンゴル人(後に日本に帰化している)の好む気象条件等を考慮して信濃の国の「追分宿」周辺の山地に、この馬の放牧場が作られたこと、この馬が此処で増やされ毎年、優れた馬が朝廷に献上されていたが、この献上馬が上方に向けて出発する際に歌われてきたモンゴル民謡(オルチンードゥーと思われる)が変化して「小諸馬子歌」となったと伝えられている。ここで言う「汗血馬」は敦煌やウイグル地区で活躍していた千里を駆ける能力を持った「天馬」とも言われいた馬である。 日本民謡は伝承記録が極めて少ないものであることから、その追跡は極めて困難な作業だが、中津川市と小諸市が姉妹都市となっていることから、誰かがこのような追跡をすると面白いがなーと思って書いてみた次第です。

4)その他のこと 「ホッチョセ」の歌詞については、幕末から明治期の初期にかけて中津川の素封家たちが鎌倉の文人と交流していて、彼らの影響があると書いた記述を読んだ記憶があるが、この唄の歌詞をよく読んで見ると、あくまで民間レベルのもので、簡易な三味線伴奏を伴って座敷座敷として唄を歌っていた人たちの合作のように思われる。前述の[日本の民謡 西日本編]の中には、この唄は大正から昭和にかけて中津川から名古屋の花柳界にまで流れ、 粋な二上がりの三味線にのせられた座敷歌になり、それが名古屋を訪れる商人によって近隣に広まったこと。  昭和35年に中津川に「ホッチョセ」保存会ができれから、再び「盆踊り唄」として元の形にもどった。この民謡の元歌と言われる「中津川甚句」と「ホッチョセ節」の歌詞を並べてみると同じ部分が多いが、旋律は幾分違っている。「ホッチョセ節」はテンポがゆっくりで、メリハリがはっきりしているが、中津川甚句」は芸者が宴席を盛り上げるために歌ったものがそのまま残っていて。はずんだ余興的な歌い方になっている。と記述されている。

<インターネット情報より>  

  小諸馬子歌を源流を確認するために、小諸の民謡保存会と山梨県県側の小諸馬子歌保存会が時期を変えてモンゴルに出かけ、この国に伝えられている小諸馬子歌と類似した民謡が今もこの国に存在しているかどうかを調査しているが、いずれも小諸馬子歌にそっくりな民謡が存在することを確認してきている。山梨県側の小諸馬歌保存会の報告は今から10年くらい前の記録だが、ウランバートルに泊まった時の夜に、遠くから小諸馬子歌にそっくりのメロディー歌声が聞こえてきてびっくりしたと記録されていた。

                                                         追加事項記載 2013.5.14

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