《 音の回想12 》 清く美しきもの

下の曲名をクリックして演奏を聞きながら詩を読んで下さい。

テレマン作曲:リコーダーとフルートのための協奏曲ホ短調より


 

 この詩は中津川でのかっての音楽活動に対して、串田孫一氏が書いて下さったものだが、あれからもう30年以上の歳月が流れている。今から思えばこの頃が音楽教師として、自分なりのビジョンが実現できた最も充実した時期だった。
 当時の私は、音楽コンクール全盛の中で、『音楽を愛好する心を育てながら、音楽活動を通して生徒を人間的に成長させていく。』というねらいを持ち、学校で教えた音楽、とりわけ小人数のアンサンブルが生徒の生活の中に浸透し、家庭や地域にまで広がっていくこと、更に、教え子の次の世代まで、こうした音楽を発展させていくこと考えていた。
 当時の実践記録や生徒の演奏曲目に目を通すと、中学生にしては可なり高度な曲に挑戦するといったものが多いが、今考えると、よくもこんなことが実現できたものだと思う。
 授業記録では、鑑賞曲を生徒に演奏させ、表現と鑑賞の一体的な指導を試みたものが多いが、合唱曲も大曲を扱っていたことから、可なり無理をして指導をしていたようである。中学3年生の授業でJ.S.バッハの組曲ロ短調の中の『ロンド』と『ポロネーズ』をリコーダーの合奏で演奏しているし、クラブ活動的なものではテレマン、バッハ、ビバルディー等のソナタや協奏曲もたくさん演奏している。
 当時はリコーダーは勿論、こうした曲を扱う学校は殆どなかったし、専門家の世界でも手がつけられていない分野だったので、こうした音楽が全国的な注目を集め、度々訪れる外部からの参観者の前で演奏する機会が与えられたことが、生徒にとって大きな励みとなったし、演奏家の訪問で度々生の演奏を聞く機会を与えることができたことも大きな力となっている.。
 今から思えば、生徒の発達段階に即した教育的な指導であったかどうかは疑問だが、若い日の情熱が指導法の未熟さを越えて、生徒の心に入っていったのだと思う。当時の雑誌やテレビ・ラジオ等で放送されたものを振り返ってみると、中学生が本格的なるルネッサンスやバロック期の音楽を演奏していたこと、学校で教えた音楽が家庭や地域に発展し、音楽の生活化が進められていたことが主な評価だった。長年にわたって『学校音楽校門を出ず。』というジンクスがあって、こうした音楽教育が物珍しく扱われたようだった。
 『出会いを生かす』のところでも触れたが、当時、私はチロルの音楽一家『エンゼルファミリー』との交流を図りながら、生徒の音楽を愛好する心を育て、学校で教えた音楽が、自分の手から離れた家庭や地域にまで発展することを大きな目標としていた。そのために、生徒にとって魅力がり、音楽としても力のあるアンサンブル曲を諸外国から取り寄せたり、彼等の好きなメロディーをアンサンブル曲に編曲して、生徒とともにアンサンブルを楽しむことを積み重ねた。その内に生徒が自分たちで気に入った楽譜を選んで印刷し、校内に広めていくいようになった。やがて他教科の先生も生徒に習ってリコーダーを吹き、一緒にアンサンブルを楽しむという動きが出てきて、楽しいリコーダー・アンサンブルの輪が校内に広まっていった。又、この頃はクラシック好きな男子生徒が生徒会の執行部を占めていたこもあって、生徒会主催のレコードコンサートの希望曲目でも、上位30曲あたりまではクラシックの名曲が独占し、ポピューラー音楽は下位の方でわずかに顔を出すという程度だった。
 この頃はリコーダーの得意な生徒は少しでも困難な協奏曲や変奏曲に挑戦することをことを好んだが、放課後の教室で、それに家へ帰ってからもよく練習をしていた。練習というより楽しんでいたというのが当たっていると思う。ちょうど大人が煙草を吸うような気軽さでリコーダー・アンサンブルを楽しんでいたのである。
 学校の下に500メートルほどの下り坂があり、一時、自転車のハンドルを持たずにリコーダーで『荒城の月変奏曲』を最後まで吹く競争がはやったことがあったが、このことを串田先生に話したところ、先生はこの話が気に入ったとみえて、後になってこの話題が文芸春秋社の随筆集『自然と美と心』の中に収められていた。あれから、もう30年以上の歳月が流れ、当時の教え子の子どもが成人を向かえる年代にさしかかっているが、多くの家庭で自分の子どもに音楽の楽しさ伝え、アンサンブルの輪が更に充実した姿で広まっているようである。
 最近になって生涯学習が叫ばれているが、音楽の良さ深さを求めて、仲間とともにひたむきに努力し、自分のつかんだ音楽の喜びを家庭や地域にまで広めていった当時の生徒の姿は、今日的な教育課題を先取りした教育実践であり、それは、まぎれもなく生涯学習を目ざした音楽教育だったと思う。
 つぎに、当時の生活化をめざしたアンサンブル指導にかかわる生徒の作文やその頃の寄稿文を紹介したい。



私が持っている笛

安藤牧子(昭和42年:中学3年生)

 たて笛で2重奏などやっていて、音と音が、息と息がピタッとひとつの音になった時ほどうれしいことはない。笛の音は甘くて、和らかくて、曲によって哀しい音だったり、可愛いい音だったり、面白かったり、色々な感じがでる。
 友達と放課後に吹いたり、帰り道で吹いたり、日曜日も学校にきて吹いた。私の音と友達の音とが重なって響き合うとき、何も話さなくてもお互いにわかり合っているという気がする。笛は何といっても合奏が一番だと思う。

私の生活と笛

新田 博(昭和42年:中学3年生)

 笛といういものは面白いもので、吹く人の気持ちととけあうと自然に美しい音色が出る。また笛というものは、だれか吹く人がいないと何もできない。すなわち、これが笛と人間とのつながりではないだろうか。
 お互いにもちつもたれつである。この笛と人間のもちつもたれつの愛情が欠けている人には笛はごく普通のものとしか考えられないだろう。しかし僕には『笛』は一つの生き甲斐のように思えてならない。笛は、僕が悲しい時には一緒に悲しんでくれる。また、楽しい時には笛も一緒に笑ってくれる。自分一人きりの時、話し相手がいない時、僕は笛を吹く。すると笛に話ができるような気がする。だから笛は一番親しい身近かにある友である。

僕とリコーダー

田口克也(昭和42年:中学3年生)

 リコーダーは誰でも出来るものです。笛がこわれていない限り、吹けばいやでも音が出ます。指使いも割合簡単です。しかしそれでいて吹き方によっては、全然つまらなくなるし、またオーケストラに使う楽器に匹敵する世界を見つけることも出来ます。
 今年の春、公民館で『リコーダーアンサンブルを楽しむ会』が行われましたが、その時僕も色々に出演しました。友達が第1ソプラノ、母が第2ソプラノ、僕が第3ソプラノ、そして妹がピアノを弾きました。母はリコーダーを吹くことを全然知りませんでした。僕が先生に頼まれ、家庭で音楽を楽しむことの大切さを母に話すと、はじめは『出来るわけがない』といって引き受けてくれませんでしたが、僕が教えてやるということで、ようやく納得してくれました。それから一ヵ月間、母は一生懸命に練習に励んでくれました。夜、よく家族3人で合わせましたが、母はいつも間違えるので僕が怒ると、母も怒り、二人はしばしば口論しました。
 リコーダーの演奏会の時、母は時々間違えましたが、とても真剣な様子でした。それにしても一ヵ月でよくこんなにうまくなったなあ、と感心しました。



わが家の合奏

土井玲子(昭和43年:中学1年生)

 『この中津川の町にリコーダーの合奏が出来るところなど、そうないぞ。子どもだけとか、親一人加わってというのはあるけどなあ。』父は愉快そうにこう言う。わが家の合奏分担は、父と母がソプラノ笛、私がアルト笛、姉がテノール笛を受け持つ。姉を除けばリコーダーはみなやり始めたばかりである。
 両親は戦争中の恵まれない時代に教育を受けているので、今のように楽器を習うこともなかったし、楽譜を読むこともあまりやっていないようです。これに比べて私たちは何かについけて恵まれています。私は今ピアノを習っており、音楽の授業でリコーダーも習っています。姉はブラスバンドのクラブで頑張ってきただけあって、リコーダーもなかなか上手で、音楽を真から楽しんでいるといった感じです。この4人がひとつになって合奏をはじめたのです。母は、最初はあまり好きではないらしく、なかなか参加しませんでしたが、リコーダーの会のホームコンサートのところへ出演してみないかという話があってから、『みんなで教えたるでええに! 先生が3人もおるのやに!』などと言うと、いやいやながらやり始めました。指はどのように押さえるのか?から教えるのだ。音符も、音階も最初からである。父と私は楽譜を見ながら一生懸命、姉は威張った先生といった感じである。
 演奏会が近づいてくると母も熱心になり、『はよ教えてけー』と自分から練習しだし、『ファからドの指のところがうまくいかんわ。』などと言いながら、長年指をこまめに動かすことなどしていないので、どうしてもうまくいかず、難儀をして練習をしてくれた。しかし、努力の甲斐があって、少しずつうまくなっていくので母もうれしそうだった。
 演奏会の当日は、人前で音楽を演奏することなど一度もやったことがない父母や私などはドキドキして出番を待っていた。でも前に出てやることになると度胸がついて、だんだん落ち着いてきた。しかし、母は、練習の時、間違えなかったところをピーピー変な音を出して、終わった時に『もうちょっとも指がゆうこときかへんもん。』とぼやいていた。どうみてもあまり上手とは言えなかった。当日、家族全員で出演しているのは他になく、主にお父さんが抜けている家族だった。その点では大いばりだった。父は自身を得て、『来年も出さしてもらって玲子の伴奏で独奏をやるぞ!』とハッスルし、『私ももっと頑張るは、ピーなんてやらんように名誉挽回するでー』と、母も『今度こそ頑張るでー』という意気込みになった。私も笛を吹いていると『父なんか負けん』というファイトが湧いてくる。
 努力の結果、今まで考えも及ばなかった家族全員の合奏団がわが家に出来た。今でも時々アンサンブルを楽しむことがあるが、みんなの呼吸がピタッと合って美しい合奏が出来た時ほどうれしいことはない。

マリオ・ドゥシェーネ氏からの便り(訳文)

1970年1月14日

 拝啓、あなたとあなたの生徒たちの手紙を拝見し、しかも大変優れた演奏テープを拝聴できて大喜びでした。私の生徒がこれ以上よい演奏が出来るとは到底思えません。皆さんに厚く御礼申し上げます。私もあなたと同様なこと、つまり私の生徒の演奏テープを送りたいのですが、今の所しばらく学生を教えていませんので、しばらく時期を待たなければなりません。
 現在、私は子どもたちのための特別演奏会で、ケベック交響楽団を指揮していて非常に多忙であります。この演奏会は、私がどうしてもやりたいと思っていたことでもあり、熱望していたことでした。私は日本を訪れ、あなたの生徒たちのために演奏したり、教えたりしたいと思っています。このようなことを多分具体的に計画出来ると思います。くれぐれも、いつかあなたとあなたの生徒たちにお会いしたいと念願しています。

(マリオ・ドゥシェーネ:リコーダー奏者・カナダ ケベック交響楽団指揮者)

 この便りが届いてからしばらくして、ドゥシェーネ氏から、氏のリコーダーと友人の世界的フルート奏者ジャン=ピエール・ランパル氏との二重奏を録音したレコードが送り届けられた。このレコードにはこちらから送った生徒の演奏曲と同じものが何曲も含まれていて、とても感激した覚えがあり、このレコードは今も私の宝である。



日本のある町での一人のヨーロッパ音楽家の印象

フェルディナンド・コンラート(昭和49年11月)

 中津川において、私は中学校の音楽教師田中吉徳氏と知り合いになり、彼の授業を参観する機会を持ちました。
 ここで第一に印象的だったことは、非常に明るい親しみのある打ち解けた授業の雰囲気の中で、教師と生徒の接触関係が柔軟で、そして生き生きと取り交わされていたことです。当日の音楽授業のテーマは、ブラームスの作曲した『ハイドンの主題による変奏曲』をリコーダーを使って説明することでした。説明の主体は曲のアルティクラティオン(Artiklation)、ディナミーク(Dynamik)が取り上げられました。この授業の中で教師と生徒の質疑応答の中で驚いたことは、生徒が考えた楽想がブラームスのものと同じになったということです。この授業の中に、リコーダー合奏は非常に効果的に使われており、同時に喜びに満ちた楽しいものでした。
 この非常に骨の折れる音楽の指導の成果を、その晩、成木家で催されたホーム・コンサートで見ることができました。ここでは学校教育の意図や成果が子どもを通じて家庭に持ち込まれ、演奏曲目も、バロック音楽、現代音楽と幅広い分野で演奏されました。その上、この演奏の中で日本の古典音楽『箏曲』の演奏を聴く機会がありましたことは、私にとって非常に興味深いことでした。この晩、特に印象的だったことは、韓国の現代作曲家Jae-Youl-Park(朴在烈)・・・・この日彼のお兄さんである音楽教育家、朴 在薫教授が、わざわざ韓国から中津川にこられ、同席して下さいました。・・・・の中津川リコーダー・グループのために作曲された曲の演奏です。
 当地で、私は、一人の熱心な教師による、目標を定め、それに向かって指導された音楽教育の成果が、町全体の人々の中に浸透して、音楽が人々の中で生き生きと脈うっている姿を見ることができました。(芸術現代社刊:雑誌リコーダーより転載)

(フェルディナンド・コンラート:リコーダー奏者・ハノーバー音楽院教授)


S.シャイト作曲:5声の組曲より『イントラーダ』

ヘンリー・パーセル作曲:ロンド

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