《音の回想7》丸暗記の効用
 まる暗記というと、テストを目前に控えた学生が、声を出したり、紙に書いたりして、何回も同じことをくり返して記憶することをいうが、この言葉には、テストに備えた一時的な記憶で、後の役には立たないという思いがある。
 4年前87才で亡くなった私の母は、70年も前に暗記したと思われる歴代天皇の名前や年号を口にすることがあったし、中学生の頃、二人の姉が大声で暗記していたカナダの5大湖の大きさの順『スペリオル、ミシガン、エリー、オンタリオ 』などは今も焼き付いて離れない。
 自分の体験でも中学時代に徹底して暗記させられた英語の『ロビンソンクルーソ ー 』などは今でも口を突いて出てくるし、高校時代のものでは、化学の光学異性体の名前、物理のフレーミングの法則の指の形、それに歴代の古代人類の『ピテカントロップス』から『クロマニヨン』までの呼び名等が、ふとした時に蘇ってくる。
 ところで、丸暗記は役に立たないと言われるが、私にはこれが結構役に立っているのである。もう30年も前のことだが、はじめてヨーロッパに渡り、集団から離れて一人旅をした時のことである。この時、速成の英会話は殆ど役に立たなかったが、中学生の頃に丸暗記した英語の物語は、いつでも思い出され、少し構文を変えてやれば、何とか相手に通ずることがわかった。この旅行の20年以上も前に暗記したことが、こんなに役に立つとは思わなかった。
 もうひとつ家内の実家から伝えられた暗記法で今でも役に立っているものがある。それは英語の曜日の覚え方だ。恥ずかしい話しだが、私は今だに英語の曜日はピントこない。いつだったか、家内が面白半分に、昔覚えた曜日の暗記のし方を口ずさんだことがあり、これがわが家に定着し、大いに役立っているのである。

『月』はまんまるおがMonday

『火』に水かけるとTuesday

『水』田に苗をWednesday

『木』刀腰にThursday

『金』ぴらこんぴらFriday

『土』曜の客はご無Saturday


 私は最近衛生放送の録画を楽しみにしているが、英語の曜日の略字を間違いなく打ち込んで、ビデオに自動録画させるのに、この暗記法が役立っているのである。又、メロディーになった音の記憶というものは極めて高いもので、警視庁の捜査陣が瞬時に車体番号を記憶するのに、数字を音に置き換えて記憶するということを聞いたことがあるが、この話しの真偽はともかくとして、私も時々この方法を試みることがある。これは私の電話番号が25-3544であれば、『レソ・ミソ ファ ファ』とメロディーで覚えておくものだが、音符の読める者ならメロディーとして覚えているので忘れることも少なく、結構役立つものである。もう少し早く、中学・高校の頃に、こうしたことに気づけば、当時の暗記式のテストに威力を発揮したものと惜しまれるのである。
 ふり返って見ると、人間は過去の文化を伝承していくために、様々な方法を生み出しているが、音楽の力を借りた暗記も大きな生活の知恵だと思う。それは宗教音楽の存在から明らかなように、言葉にメロディーの抑揚をつけることによって、それぞれの宗教的な雰囲気を高めるだけでなく、人間の記憶をより確かなものにする効果があったように思われるのである。あの長大な第9交響曲第4楽章の歌詞はドイツ語の意味がわからなくても、メロディーがあるから暗記できるわけである。このように考えてくると古事記における稗田阿礼の伝承も、言葉だけでなく何か古代歌謡としてのメロディーを伴った形で伝えられてきたように思えるのである。いずれにしても、この伝承がどこかで途絶えていたら古事記は生まれなかったわけであり、暗記というものは人間の生活の知恵としての貴重な文化だといえるものである。
 最近はコンピュータを使った情報活用能力が重要視され、暗記というようなことは軽視されるようになってきたが、いつの時代でも記憶力旺盛な時期に、基礎的・基本的な事項をしっかり暗記して身につけ、いつでも応用・発展させられるようにしておくことが欠かせないと思う。

 

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