音の回想8》ラジオの組立てと音楽
 戦後間もない頃には誰しもが生きていくのに精一杯で、生活の潤いというものは殆どなく、子どもも農業等の労働に駆り出されて学校の勉強どころではなかった。しかし、少しずつ先が見えてくると世の中に明るい兆しが出はじめ、自分たちの生活を充実する動きが見えるようになってきた。その頃はまだ出版物が自由に入手できないこともあって、ラジオ放送が貴重な情報源であり、唯一の娯楽にもなっていた。こうした時代の中で工作好きだった私には町のラジオ屋が憧れの職業に思えたのだった。ラジオ屋の店を覗いて、修理や組立を長時間見ていたことを今でも思い出す。戦後2年経った頃のラジオ放送に『鐘の鳴る丘』や『20の扉』という人気番組があったが、その頃はまだラジオを持っている家は少なく、私の家でも満足に聞こえるラジオはなかった。
 たしか中学2年の時だったと思うが、壊れて音が出ないラジオを譲り受け、部分品を取り換えて何とか音が出せるようにしたことがあったが、このことがきっかけとなって、私はラジオの組立てに没頭するようになり、明けても暮れてもラジオの部品さがしと組立をやるようにうなった。
 高校に入ると同じような仲間が数人おり、今度はクラブ活動でこの面の技術を競うようになった。最初は、まず音が出せることに興味があったが、部分品が改良されて品質が向上してくると、こんどは少しでも音質のよい物を作ることに関心が向けられていった。メンバーの中に音楽学校を目指す者がいたり、兄がクラッシクの愛好家だという者もいて、高校2年くらいからはラジオの制作ばかりでなく、少しずつ音楽の話題が加わるようになっていった。
 こんどはコントラバスの音が歪なく出せるようにするとか、ハイフェッツの弾く『チゴイネルワイゼン』のバイオリンのハーモニクスの最高音がすっきり出せんとアンプとしては駄目だ。というような会話が多くなり、最初は音楽の良さというより、周波数の特性や音のバランスを試すために音楽を使っていた。しかし、何回も何回も音楽を聞いているうちに、メンバーのみんなが音楽そのものに関心を持つようになり、そのうちに機械から離れた音楽談義に発展していった。この頃、姉が職場の知人から借りてきた畜音機で『ウイリアムテル序曲』や『カルメン組曲』を聞いたことがあったが、けっこう楽しんで聞けた覚えがあるので、高校生になってからクラシック音楽が好きになったことは確かである。
 ところで、私の高校時代には戦争で職を失った郷土出身の実力者が、戦後になって地元の新制高校の教壇に立たれるということがあって、どの教科にも実力のある先生が揃っていた。音楽も東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)を卒業された巌本という先生がおられた。しかし、当時の生徒には先生の持っておられた音楽を吸収するだけの力はなく、当時は芸術を理解するという点では極めて貧しい状態だった。この先生は東京からいきなり、音楽でい言えば田舎の最果ての地にこられて、生徒の実態に唖然とされたと思うが、高齢にもかかわらず、生徒の力に合わせて、やさしい歌曲を自分で編曲してプリントし、これを使って授業を進めていかれた。特に印象に残っているのはビゼーの組曲『アルルの女』の中の『ファランドール』の合唱の授業だが、先生が弾き歌いで必死になって指導されるのに、生徒の方はふざけて半分で。器楽的な早い部分でララララ・・・・・・・・とハミングで歌うところなどは適当にごまかしてやっていた。先生は叱ることもなく、やさしく注意を与えては、同じ場所を何回も繰り返して指導された。こういう時、高齢とはいえ、音楽にかける情熱を感じた。今思うと申し訳ないようなことだが、戦後間もない当時の生徒は戦前戦後の混乱の中で、音楽の良さ深さを理解するような力が育っていなかったのである。
 後になって、この音楽の先生は当時の日本を代表するバイオリニスト巌本真理の叔父にあたる音楽家だと聞いた。
サラサーテ作曲『チゴイネルワイゼン』XG音源用

 このMIDIデータは斎藤良徳さん制作されたものを本人の了解を得てXG用に調整したものです。

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