《 音の回想9 》柴又にて
柴又は東京の葛飾区のはずれにある小さな町で、有名な帝釈天があり、年に何回かの縁日には、各地から集った信者で賑わっていた。何でも商売や勝負ごとにご利益があるといういことを聞いていた。
今から45年も前に、私は地元の学芸大学から派遣された委託学生として、東京芸術大学で音楽の勉強をしたことがあった。ここで学んだことがきっかけとなって、後にリコーダーの指導法を研究したり、日本の音楽の指導も試みることになるのだが、東京に出た頃には教員になるという考えはなかった。
私はどとらかと言えば人のやらない個性的な生き方に関心があったことから、当時としては珍しいフルートをやっていた。このことがきっかけで、地元の学芸大学では習えない、この楽器の専門技術を身につけるために、この大学に派遣されたわけだが、遅くから音楽をはじめ、専門のフルートも今のレベルでいえば初歩段階だったので、自分の住んでいる地域に関心を示す余裕などあろう筈がなかった。
この芝又という町に下宿した理由も極めて単純なもので、通学可能で、経済的な折り合いがつく所を求めて、流れに流れてこの町に辿りついたのがここだったに過ぎなかったのである。その頃は戦後10年を経過していたが、食料事情や住宅事情が極めて悪く、地方から東京に出て下宿をしながら勉強をすることは容易なことではなかったし、遅れた音楽を取り戻すことに精一杯で、とても周囲に目を向ける余裕はなかった。
当時の学生生活は朝6時に起きて、京成電車に乗って学校へ出かけ、まず、ピアノのある練習室を確保(ピアノの譜面たてに自分の楽譜を置く)してから、最も安い美術学部の食堂で朝食を取り、練習室に戻って夜の9時頃までフルートやピアノなどを練習し、合間に授業に出るというもので、楽器の練習は日曜日も祝日もやっていたので、下宿の周囲がどうなっているかなどは全くわからなかった。わかっていたのは電車の駅から下宿までの道筋と銭湯くらいのものだった。
半年も経ってから気づいたことだが、下宿の裏には大きな川が流れていて、これが江戸川だと知らされた。ちょうどこの頃、伊藤左千夫原作の『野菊のごとき君なりき』という名作映画が作られ、民子や正夫が渡ったのは、この川の下の方だと聞いた覚えがあるし、わが国最初のカラー映画『花の中の娘たち』もこのあたりが舞台になっていたようだ。この二つの映画は後になってから見たが、いずれも音楽効果が見事で、このあたりの景色によくマッチしていて、幻想的な雰囲気を盛り上げており、前者はマンドリンとギターのアンサンブル、後者にはフルートの助奏を伴ったソプラノ独唱とガロア・モンブランのフルートの小品が使われていた覚えである。
あれは東京にきて2年目の、確かストライキで電車が動かなかった日のことだったが、思いがけず下宿の裏の江戸川堤に出て、辺りの景色を見たり、近くの
帝釈天まで散歩したことがあった。江戸川堤にはぼうぼうと薄が茂り、時々ポン
ポン……という長閑な焼玉エンジンの音をたてて川を行き来する船の姿が見えた。船の上には子どもとその両親と思われる家族の姿があり、これが当時話題になっていた水上生活者だった。近くでボラを釣っている人が、この船は上流から人間の排泄物を運んできて、東京湾で捨てるのだと言っていた。この日は雲ひとつない晴天で、遥か下流の市川あたりの景色がはっきり見渡せた。
帝釈天は京成電車の芝又駅から、約300メートルほど奥へ入った所にあり、参道の両側には団子屋、煎餅屋、各種の食堂などがぎっしりと並び、殆どが老舗の風格を備えていた。私がはじめて行った日は縁日でもないのに、可なりの人出があり、この時はじめて、芝又の帝釈天が有名で、信者の層が厚いことを知った。
いつだったか現役時代の野球の王選手がここへお参りに来たというテレビのニュースを見たことがあった。私がこの町で過ごしたのは2年ばかりだったが、自分の生涯を左右した音楽の勉強を支えてくれた下宿のあった町ということで、いつまでも記憶に残っていくことと思う。
柴又は今では、山田洋二監督の『男はつらいよ』の寅さんの故郷として、全国的に有名となり、10数年前、教え子といっしょに、ここを訪ねた時には、この映画の舞台となった老舗の前には、寅さんの実物大の看板が立てられ愛敬を振り撒いていた。その時には訪ねた下宿は跡形もなくなり、江戸川堤はゴルフ場や野球場として整備されていて、昔の面影はなかった。ただ、どす黒い江戸川の流れは今も昔も変わっていなかなった。
グノー作曲:セレナーデ
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