《音の回想10》新米教師
 昭和31年の4月のことだが、私は中津川市(岐阜県)から北へ約30キロほど入った付知中学校の新任教師として、この地に赴任した。当時は中津川から下付知までの区間を日本一遅いと言われていた北恵那電車が動いていて、これに乗るより他に付知町へ行く方法はなかったが、中学校のある町の中心部へは、終点の下付知から更に4キロ以上の道のりを徒歩で行くか町内バスで行くかのどちらかだった。今では道路が整備されていて、中津川からこの町まで車で30分もかからないのに、当時は今の3倍以上の時間がかかっていたわけで、今にも止まりそうな電車に揺られて、やっとの思いで辿りついたこの町の印象は、何となく最果ての地を思わせるものだった。
 私は岐阜県の南東に位置する恵那郡の南部、今の岩村町の富田で育ったが、同じ郡内でも、恵那市と中津川市を通過して辿り着く北恵那沿線の各地は、名前を聞くのも初めての土地が多かったし、教員になるかどうかの決意もつかず、岐阜県に就職するかどうかの自覚もないまま、事がどんどん運び、東京での学生生活を終えると、いきなり恵那郡の最北端に近い、当時としては、最果ての地に思えたこの町に新任教師として赴任したわけである。
 赴任早々に、この学校の先生方から聞いた声も『ここは若いもんの来る所やないぞ』、『土地柄がようないでだちかん』、『親に教育理解がないであかん』というものばかりだった気がする。赴任早々の天候が悪かったせいもあるが、なんとなく暗く、絶望的な雰囲気が漂っていたことは確かだった。
 ところで、子どもの頃から教育に専念する親の姿を見て育った私は、疑いもなく教師が職務に専念することが、ごく当り前のことと考えていたし、遅くからといっても、音楽を専攻した身であったので、この学校で私なりの音楽教育を実現したいという思いがあり、特に学生時代に器楽を専攻したことから、何とかして合奏指導を実現したいと考えていた。しかし、当時の付知町の厳しい財政状況の中では、学校予算は知れたもので、音楽科に配当される予算もゼロに近いもので、音楽の設備はジャバラの破れたアコーディオン一台、バルブ(管)のつぶれたトランペット1本、それに古色蒼然としたアップライトピアノが1台だけだった。
 これでは合奏指導など考えも及ばなかったが、新米教師の私には、新しい土地の環境や職場に適応していくことが精一杯で、不平不満を言っている余裕もなかったし、他の学校に勤めたこともないので、比較する対象もなかった。しかし、先輩教師から聞く土地柄とは別に、ここの学校の生徒は素直で明るく、久しぶりの若い新任教師ということで、特別な親しみを持って迎えてくれたように思えた。
 もちろん、先輩教師の中にも不平不満分子ばかりではなく、地域に愛着を持ち、若輩の私を歓迎し、何くれとなく指導して下さった方もあったし、音楽教師の前任者でベテランの北原恭平先生などは、自宅へ連れていって歓待して下さり、町の音楽事情を教えて下さった。たしかに学校全体は研究的な雰囲気ではなかったが、それでも先生方は、向こう見ずで、計画性の乏しい私の教育を温かい目で見守り、何くれとなく声援して下さったことを思い出す。
 食生活では、住み込みの小使いさんだった長谷川きくさんに特別にお世話になったが、この人は私を我が子のように面倒を見て下さった。きくさんには3人の子どもがあって、長男は既に就職していて家に帰ることもなかったが、私が赴任した時には、中学校2年と小学校6年生の女の子がいた。私はいつもこの家族と一緒に3度の食事をしていたが、おばさんの料理の腕はなかなかのものだったことを覚えている。食事の時は、いつも子どものことや音楽のことが話題で、家族と変わらない雰囲気だった。 
 又、私の下宿は中学校のすぐ近くにあり、家主は道路を隔てたすぐ前の付知印刷の伊藤さんで、この家族の方も大変いい人ばかりでだっので、時々出かけて話し込んだ覚えがある。この下宿として間借りしていた家は、独立した1軒家で、部屋数は確か3つあったと思うが、学校から近い便利な所だったので、休日には中学生が、普通日は夜になると町の音楽愛好家や時には定時制高校の生徒が尋ねてきた。今から思うと、こうしたことが音楽教育を支える力になっていたし、若者から町の様子を聞くことも教育の力になっていたと思う。
 音楽教育の話しになるが、町や学校の実情がわかってくると、器楽指導は無理でも、歌唱指導のみではなく、鑑賞指導の面からも、何とか音楽教育を充実させたいと考えるようになった。そこで、私は私費を投じて地元の専門家にレコードが聞ける機械を組み立ててもらい、これを使って鑑賞指導を進めることを試みた。しかし、設備は何とか出来ても、当時のLPレコードは大変高価で、自分の月給では月に1枚買うのが精一杯だった。しかし、私の苦心談を聞いた町の音楽愛好家の方が、貴重なEPレコードを何枚か貸して下さったこと。又、当時としては珍しいオープン・テープレコーダーを町役場で購入されたので、町に1台のこの機械を殆ど私が借り切って中学校の鑑賞指導に使わせてもらった。当時の役場の担当者は小南守郎さんだったが、この人が教育に理解が深い音楽愛好家だったことが幸いした。小南さんは当時としては大変貴重なこの機械を惜しげもなく貸して下さった。このテープレコーダーは随分重くて持ち運びには苦労したが、これに借りてきたレコードを編集して録音し、音楽室で得意になって世界の名曲を聞かせた。(当時はまだ著作権が問題にならなかった)もちろんレコード鑑賞もやったが、私の手持ちは限られていたので、同じ曲を何回か繰り返して聞かせたこともあったが、当時の生徒はそれでも喜んで聴いてくれた。
 こうしてだんだん名曲を愛好する雰囲気が高まってきたところで、合唱指導も試みたが、今から思えば、当時はほんとうに未熟な指導技術で、生徒の力を十分引き出すことが出来なかったことを申し訳なく思う次第である。
 ところで、私は予算も何もないような状態の中でブラスバンドの指導を実現させた。先にも述べたが、当時の町役場の財政の中での学校予算を考えれば、全く無謀としか思えないことで、状況がわからない新米教師だからこそ実行できたことだった。つぶれたトランペット1本で、どうしてブラスバンドが編成出来るところまでいけたのか不思議な話しだが、結果的には実現出来たわけである。
 私は、まず町内や近くにブラスバンドの楽器があって借りられそうなところを手当たり次第にあたっていった。山奥の営林署の倉庫に、昔使っていた楽器がありそうだと聞けば、いくら遠くてもそこまで出掛けたし、中津川の小学校にホルンがひとつ眠っていると聞けばそこへも出かけた。更に恵那郡の岩村辺りまで足を伸ばし楽器を借りてきた。こういう時には父がこの地区で校長をしていたことが大いに役立った。もちろん、地元の町の人が使っておられた楽器もいくつか借りた。借りた楽器の殆どは使う当てのないものだったし、私の熱意に動かさせて気持ちよく貸して下さった。更に私の私費で購入できそうなものは無理して買い求めた。ところが、借りてきた楽器の殆どが古いものばかりで、しかも長期間使われていないことから、満足に音の出るものは殆どなかった。
 最初の課題はこうした楽器を修理して、何とか音が出る状態に復元することだった。トランペット類は、その殆どがバルブに穴があいていたし、凹みもひどいものだったし、ピストンも錆びついていて動くものは少なかった。こうした楽器をひとつずつ何とか音が出せるようにしていったのである。トランペット類の朝顔の部分に雑巾を詰め込んで煙草の煙を入れ、煙の出る箇所に印をつけておいて、後からハンダで塞ぐこと。これは何とかなったが、錆びついたピストンを動くようにするには大変な努力を要した。こういった作業は放課後や休日にやったが、生徒がほんとうによく手伝ってくれた。
 私の手に負えないところは近所の鍛冶屋さんに持っていったが、当時、町会議員(文教委員)だった三浦利三さんが全面的に協力して下さって、修理が一気に進み、不可能に思えた部分も修復できた。三浦さんが自分の仕事を休んで協力して下さったことを今でもよく覚えている。しかし、バルブの修理は材質が古くなっていて力をかけると破れる恐れもあり、なかなか元の形には復元出来なかった。
 それでも約一ヵ月かかって借りてきた楽器の殆どが音を出せるようになり、ひとつずつ使える楽器が増えていくと、生徒はこおどりして喜んでくれた。今から思うと随分みすぼらしい話だが、生徒と一緒になって苦労して楽器を探し求め、それを苦心して修理し、この楽器を使って音楽をつくり出していったことの教育的意義は極めて大きいものだったと思う。
 このブラスバンドの構想を考えたのは、赴任した年の6月のはじめ頃だったと思うが、7月の終わり頃には音の出せる楽器を使って練習をはじめ、その年の秋には、もう校歌とふたつの簡単なマーチを演奏していたように思う。
 いずれにしても生徒に申し訳ないような楽器だったが、ピストンやキーの動きにくいものはゴム紐で補強したりして、とにかく付知町ではじめてのブラスバンドの音が校庭に鳴り響いたのだった。このことを父兄や町の方が心から喜んで下さったように思う。今から思えばこれも地域の文化活動だったし、このことがあって、学校教育に対する町民の関心が高まったことも確かだったように思う。
 ところで、付知町にはその頃には定時制高校があり、中学校の卒業生の多くがここへ進学していた。私はここの定時制の音楽の授業を週1回受け持っていたが、生徒との年代が近い親近感で、ここのリクレーションなどにも誘ってもらったが、下宿へも生徒がよく訪ねてきて、彼等と音楽や人生について語りあった。高校の授業では音楽が国家を救った例としてシベリュースの『フィンランディア』を鑑賞させたことがあったが、生徒が大変感動して聴いてくれたことを覚えている。
 新任教師の特権とでも言おうか、先輩の先生方は少々のことでは目をつむって応援して下さったし、町の人もほんとうによくして下さった。ひとり者の私は夕方になると時々夕食に招待されたが、そんな時に生徒の個人的な相談だけでなく、どこどこに楽器がありそうだとか、婦人会の予算が余りそうだから応援を受けたらどうかというような話を聞いた。なべ底不況の時代と言われ、経済的にはとても余裕などある時代ではなかったが、町の人たちの声援はほんとうにありがたいもので、子どもがこれだけ頑張っているのだから、これを応援しない手はないという雰囲気だった思う。
 やがて、こうした声が町会議員を通じて町長にもぶつけられようになったが、後から聞いたところによると、当時の助役だった三尾正さん、教育長の三尾富郎先生、書記の小南守郎さんたちの応援も大きくものをいったようである。酒席ではあったが、ついに当時の付知町長長谷満二氏は、付知中のブラスバンドに特別予算を出すという発言をしてしまった。当時の付知町の経済状況を考えれば、とてもこんな発言が出来る状態ではなかったようだが、こう発言せざるを得ない町民の声援があったわけである。
 この町長の発言を聞いた私は、早速生徒代表男女一名を隣接する町役場へ行かせ、町長に丁重なお礼を言わせた。ちょうどこの時、応援者の町会議員の方がおられて、『町長さん、いくら町が貧しょうても子どもへの約束をやぶっちゃーいかんぜ』といって強引に押し切って下さった。
 結局、当時のお金で65,000円の予算がつけられたが、こんなことは付知町では異例のことだったし、ほかの教科の予算も殆どない状況の中で楽器を購入するなど心苦しい気もしたが、この特別予算と婦人会からいただたお金で低音楽器を揃え、最低の編成でブラスバンドの演奏が出来るようなったのである。
 新しい楽器が買ってもらえたことは、当時のブラスバンド部の生徒にとっては夢のような話であった。このことで一層のはずみがつき、生徒は早朝、放課後はもちろんのこと、休日も登校して、時間を惜しんで必死になって練習した。他の学校でかける半分位の時間で、それなりの音が出せるようになったことを考えると、可なりな努力をしたと思う。
 このブラスバンドが2年目を迎えた時には、対外的な行事にも参加したが、たしか秋頃には岐阜市で開かれた吹奏楽コンクールに参加したころがあった。規定の小編成の楽器はとても揃っていなかったし、音程を合わせる機能が働く楽器も少ない状態で、しかも編成間もないことから勝負はとても無理だったが、田舎からはじめて中心部の大会に参加して吸収したもは大きかった。当時は交通費を工面するのも大変なことだったし、殆どの楽器はケースがなかったので、持ち運びが困難だった。この話を聞いた近くの大工さんが、急いで、しかも奉仕に近い費用で、楽器ケースを作って下さり、出発寸前に間に合わせて下さった。今では考えられないようような心のこもった応援があったわけである。
 それにしても、無謀とさえ思える私の音楽教育を支えて下さった、楠、熊崎両校長先生、校務一切を取り仕切っておられた当時教頭の花田克己先生には随分ご苦労をお掛けした訳だが、このことは自分が同じ立場になってから実感としてわかったことである。
 ところで、私は新米教師の2年間の殆どを詰襟の学生服で過ごした、当時は、もうこうした服装の教師はいなかったと思うが、理由は極めて簡単なことで、食費を除いた月給の殆どを音楽教育に投資していたので、背広を買うお金がなかっただけのことだが、そんなことは私にとってどうでもよいことだった。新しいレコードや楽譜を買い求めて生徒に与えれば、彼等は目を輝かせて吸収してくれたし、私の拙い指導を真剣に、時には感動して受け止めてくれた。それに、町の人々の温かい声援が、ひしひしと肌で感ぜられ、私はほんとうに充実した2年間を過ごさせていただいた。
 当然のことながら、新米教師は教え方が下手だ。しかし、生徒との年代が近いという親近感があって、彼等の心をつかみやすいし、それに何事も新鮮で、体ごとぶつかっていくエネルギーがある。しかも、人々の心がまだまだ純粋で人間的な温かさが漂っていた時代のことである。
 受け持ちの生徒の中に、働き手の父親を失って田畑の仕事に困っている者がいれば、そこへ生徒を連れていって手伝ったこともあったし、一人で50人近い分団の子どもを引率してキャンプに出かけたこともあった。キャンプの時には生憎台風が接近していて大雨になり、雨風が吹き荒れる中で、必死になって子どもたちを励ましながら一夜を明かしたこともあったが、父兄の皆さんは心配をしながらも、引率の私を信頼して手を貸さず、いざという時に備えて待機して下さったようだった。次の日に雨に濡れて下山すると、子どもたち全員の食事を用意して待って下さり、頭の下がる思いをしたことを覚えている。
 私はどちらかと言えば内向的で、積極的に人と交際する方ではなかったが、この町では次々と交流が開けていった。赴任当時に先輩の先生方から聞いたこの町のイメージや教育事情などを殆ど感じないまま2年間を過ごした。これは新米教師の私に状況を見抜く洞察力がなかったという見方もあるが、私は今になっても町の人々の誠意は純粋で、人間的な温かさのこもったものだと思っている。
 ここでの2年間には、若気の至りということがいくつもあったが、そのひとつは当時は運搬が困難とされていたピアノを馬車に積んで校外へ運んだことだった。その頃の付知中学校には講堂がなく、儀式などは教室の境の戸をはずしてやっていたが、音楽や演劇を発表することは困難だった。確か2年目の秋頃だったが、私はピアノを馬車に積んで町の上と下にあった二つの劇場へ運び、2つの会場で音楽の発表会を試みたのだった。この頃には合唱もブラスバンドもある程度の力をつけていたので、父兄や町の人々の日頃の声援に応えたいという気持ちから計画したことだったが、今から思えば暴挙ともいえることを先輩の先生方がよく応援して下さったものだと感心させられる。
 付知中学校での私の音楽教育は、指導技術としては誠に未熟なものだったが、先輩や町の人々のお陰で、新米教師にしかできない大胆な教育実践をさせてもらったことを心から感謝している。私も折を見てこの地に出かけるが、今でも拙い音楽教育のことを覚えていて下さり、いつまでも値うちある音楽を持ち続けておられる大勢の方がおられること、町外へ出ておられるかっての教え子の方からも、いつまでも音楽を大切にした生活を送っておられることを聞いている。
 あれからもう40年以上の歳月が流れ、教え子の子どもが時代を支える年代にさしかかっている。ところが、私がかっての教え子の方と向かいあっている時には、今も40年以上も前の純粋な心で話が弾むのである。私は退職して今年で5年目を向かえたが、新米教師の頃を思い出して見て、教師が目標に向かって、子どもとともに、ひたむきに努力する姿勢が、教育にとっていかに大切なものかを思い知らされた気がする。又、時代は変わっても子どもを心から愛し、彼等の側に立って、本気になって努力すれば、いつかは報いられるという実感である。
 最近は子どもの心が荒廃し、私も中学校で、苦汁に満ちた生徒指導を体験したが、新米教師の時代に、心温まる先輩や町民の皆さんの支えで、思い切った教育実践が出来たことを大変幸せに思い、この町での思い出をいつまでも大切にしながら、かっての教え子や町の発展を見守っていきたいと考えている。

J.F.ワーグナー作曲行進曲「双頭の鷲の旗の下に」
(この演奏は昔を思い出してDTMで再現したものです。
)

目次にもどる