《音の回想14》ハンガリーの音楽教育
 私がハンガリーに行ったのは、もう30年も前のことで、この時は、この国の音楽教育を研修することを目的にした20日ばかりの滞在だったが、この国の独特な音楽と、これをもとにした国を挙げての音楽教育に圧倒されたことが今も確かな記憶として残っている。それは民族の団結を願う悲願としてのエネルギーのように思われた。
 ハンガリーの音楽といえば、東洋を起源とするマジャール音楽とジプシーの音楽が代表的なものだが、流浪の民と呼ばれるジプシーの人達の演奏は、毎晩ホテルのレストランで聞くことが出来たし、この人たちの感にたよる世襲的な音楽教育が、その当時でも引き継がれていることを聞いた。しかし、これはどちらかと言えば特殊な職業音楽だと思った。
 ハンガリー人(自称マジャール人)というのは、ウラ ル地方から移動してきた幾つかの民族が、9世紀の初頭に、この地に定住して、統一国家を作った人たちのことであり、その後、幾たびかの国家の興亡を経て、その当時(30年前)はソビエト支配下の社会主義国となっていたわけである。したがって、この国の音楽に民族意識が強く表れているのは当然なことであり、学校の音楽教育も例外ではなかった。
 こうした国情の中で進められてきた、ハンガリーの音楽教育が、世界の注目を浴びるようになった最大の要因は、何といっても、この国が生んだ大作曲家バルトークとコダイの存在であり、この二人の作曲家が、ハンガリー民族の起源に遡って多くの民族音楽を採取し、この素材を使って高度な芸術音楽を創り出すとともに、二人の協力によって、この国の音楽教育の指導体系が生み出されたことである。
 ハンガリーの学校では、どこへ行っても、自国のわらべうたをもとにした音楽教育を進めていたが、学校で演奏している音楽は、この国では既に絶えてしまったものを、この国の民族の源流をたどって、ヴォルガ地方の小民族『マリ族』にまで遡り、この地に伝えられていた祖先の音楽を採取して教材化したもので、ここに残されていた5音音階による音楽だと聞かされた。更に、コダイはマリ族だけでなく、遠く極東にまで及ぶ諸民族のわらべ歌や民謡との比較研究を行い、マジャール民族の音楽系譜を明らかにしている。又、国の指導者から信望の厚かった彼は、ソビエト支配の困難な社会主義体制下で、自国の民族音楽をもとにした『コダイシステムによる音楽教育』をこの国に定着させたのである。ハンガリーの人達はふたりの作曲家について『バルトークはハンガリーの偉大な作曲家であり、音楽をすべての人に解放した偉大な教育者はコダイだ。』と言っていた。
 さて、私がブダペストに滞在した時は、まだ都心のビルの一部に、市街戦の弾痕が残されていたし、教室不足から、小学校では午前と午後の二部授業が実施されてており、学校の施設・設備も日本より遥かに劣っていた。しかし、高等学校や大学の古い音楽室に入ると、伝統的なこの国の音楽が建物にこもっているような気がした。
 この国では、保育園、小・中学校、高等学校、更に大学の専門教育、それに課外活動としての音楽教育も参観したが、高校までは、どいこへ行っても、コダイシステムによる音楽教育が徹底していて感心させられた。しかも、子どもたちが整然と座り、先生の指示に従うだけでなく、ひとたび演奏となると、民族の地声とも言える、はりのある声で精一杯歌っていた。

 保育園では先生の演奏する鉄筋のマーチ(わらべうた)に合わせて、円形教室に入場してきた20数名の園児たちが、マン真ん中にいる先生の音による指示だけで、楽しそうにわらべうたの歌唱指導を受けていた。ここでのソルフェージの指導は、実に確かなものであり、先生の言葉は少なくても、一人一人の子どもを大切にした見事な授業展開だった。先生は子どもと一緒にわらべうたを歌いながら、一人一人 の耳元でかすかにささやいたり、 一緒に歌ってやったりして、指導の個別化を図っておられ、ここでは一人一人の幼児の発達段階に即した効果的な指導がなされているという印象を受けた。ここで 指導していたのはフォーライン・カタリンというこの国の幼児教育の権威者だった。
 小学校の授業では、『音楽小学校 』と呼ばれる音楽教育を重視した学校の女性校長の授業を参観したが、ここでは指導の個別化を図って、一人ひとりの力を確実に高める指導技術が 素晴しかったし、児童の応答が、自分の主張する音楽表現でなされていたことも新しい発見だった。聞くところによると、この国では、低学年ほど 指導技術の高い先生が必要といわれており、実際の教員配置もこうなっているようだった。
 この学校では、ほかに体育館でピアノの演奏に合わせて行う、リズム訓練と放課後の教室を使って指導している特別活動の中学生と高校生の室内楽の演奏を聞いた。小学校 5年生のリズム訓練は、専門のピアニストの演奏に合わせて、リズム運動やマット運動、それに肋木を集団でリズムに合わせて登り降りするもの等をやっていたが、段階を経てよほど訓練していないと、このような集団活動は出来るものではないと思った。ここで使われていた音楽もハンガリーのわらべうたや民謡を編曲したものだった。又、中・高校生による室内楽の演奏は、全てヨーロッパの古典音楽であり、際だってうまいというものではなかったが、各楽器の音程や奏法もなかなかしっかりしていて、時代様式をふまえた演奏になっていた。さすが、西洋音楽の伝統を受け継いだ国の専門教育だと思った。
 ところで、学校の名前は忘れてしまったが、ある小学校の幅広い廊下で、百数十名の児童が集って合唱の練習をしており、この曲はソビエトの現代作曲家カバレフスキー の『わが祖国』という合唱の大曲だったが、この時のことを思い出して 30年ぶりにその録音を聞いてみた。この曲はハンガリー音楽を思わせる現代曲で、小学生にとっては技術的に限界に近いような合唱の大曲だが、子どもたちは幼さの混ざった歌声ながら、実に見事に歌い上げており、録音を聞いただけでも、その迫力に圧倒される思いがするので、当日の演奏はすざまじいものだったと思う。この演奏を聞いて、小学生の合唱程度で圧倒されることはないと思っていたことが間違いだとわかった。音楽を求める主体的なエネルギーが効果的に引き出されれば、小学生でもここまでできるということ実感した。このことは高校生の合唱を聞いても強く感じたが、学年が上がってくるにしたがって民族意識が高まり、更に大きなエネルギーが発揮されるように思った。
 器楽のことで印象に残っているのは、この国の民族楽器ツィンバロン (グランドピアノを小型にして弦を直接2本のハンマーで叩くような楽器)とフルヤ (縦笛)のことである。ツィンバロンはハンガリーを代表する女流演奏家のレッスンを参観したが、この時は高校生クラスの生徒が、ベートーベンの『月光の曲』を編曲したものを演奏していた。たった2本のハンマーでこんな曲が演奏出来るのに驚いたが、これはまだ序の口だった。レッスンが終わると、こんどは先生が私たちのためにハンガリーの民族舞曲や作曲されて間もない 『嵐』という曲を弾いて下さり、その演奏の素晴しさに圧倒されてしまった。ホテルで聞いたジプシーのツィンバロンの音は何となくけだるい感じだったが、先生の演奏はいきいきとしていて、音楽の表現も微妙で見事なものであり、ピアノやヴァイオリンの名演奏に決してひけを取るようなものではなかった。
 続いて近くの教室で、ハンガリーの縦笛 (フルヤ)の名手ベーレッシュ・ヤノシュさんの縦笛の合奏指導を参観した。この国には低音のリコーダーがなく、低音部をクラリネットの音でカバーして合奏をやっていた。子どもたちの演奏は特に優れたものではなかったが、不完全な縦笛を使いながらも、音がかなりにまで合った美しいハーモニーが出ていたこと、古典舞曲のリズムの良さにも感心した。ここでも先生の演奏を聞かせてもらったが、子どもが使っていたのと同じ縦笛(フルヤ)から、こんどはハンガリーの牧童が吹く得も知れぬ幻想的なメロディーが流れ、一瞬自分の耳を疑った。確かにこの笛で尺八の馬子歌を思わせる東洋的な音楽が鳴っているのである。
 話しは前後するが、私はこの研修に備えて、リコーダーで日本の馬子歌が吹けるようにして行った。前からハンガリーの民族音楽と日本の民謡が似ていると感じていたので、この曲を演奏すれば、この国の人の共感が得られるのではないか、もしかしたらいっしょに演奏することが出来るかも知れないと考えたからである。隣の教室に戻ってツィンバロンの先生に馬子歌の楽譜をを見せると、彼女はいきなり『箱根馬子歌』の伴奏を弾き出したのである。私は早速アルト・リコーダーを取り出して伴奏に合わせて、この歌のメロディーを演奏していった。不思議なことに、日本人 同志でも合わせにくい、複雑で即興性に富んだこの音楽が、はじめての演奏で見事に合ったのである。この時、ツィンバロンの演奏技術の高さのせいもあるが、日本の民謡とこの国の音楽がどこかで繋がっているのではないかと思った。最近、テレビの番組で『江差追分』のルーツを探る研究発表のような演奏を見たが、モンゴルを経由してハンガリーまで繋がっている、いくつかの国の民族音楽を聞いて、この時感じたことが正しかったことに意を強くした次第である。
 専門教育では、リスト・フェレンツで行われた大学生の校内演奏会を聞いたが、ここで感心したのは、演奏を聞きに来ていた一般の聴衆が、音楽の良し悪しをきちんと判断して聞く力を持っていることだった。ここでの演奏会では、リストやブラームスのピアノの大曲が殆どで、この中にひとつだけクラリネットの独奏があった。華やかなピアノの演奏に混じってクラリネットを演奏した学生は身なりも何となくみすぼらしく、曲も馴染みの少ないストラビンスキーの無伴奏の小品だった。しかし、その音楽は控え目ながら、実に音楽性の高いものだった。私の予想ではこの演奏に対する聴衆の反応は少ないと思ったが、この予想は完全に覆えされた。聴衆はクラリネットを吹いた学生に万雷の拍手を送ったのである。この時、この国の人たちは、誰もが音楽をきちんと聴き取る力を持っているように思った。
 もうひとつ印象に残っていることは、オペラ劇場でエルケルの『バーンク・パーン』という歌劇を見た時のことである。歌劇 の中で祖国ハンガリーを守り抜いた 英雄『バーンク・パーン』が登場すると、聴衆が一斉に立ち上がって$ウォーというような歓声を上げたが、彼のアリヤが終わったり、目立って活躍するような場面になると、又拍手や歓声が上がるという状況だった。その頃、ハンガリーとチェコスロバキヤのサッカーの試合があり、こうした競技でも自国の選手に熱狂的な声援が送られ、試合の中継が白熱すると国内の仕事が止まってしまうと聞いた。この歌劇を見て、この国の人たちの民族意識がいかに高いかが理解できた思いがした。

 夜のドナウが薄明かりに照らされて、あたりの景色が幻想的な雰囲気に包まれる頃になると、人々は民族の心を歌い、そして踊り、明日に生きる活力を得ていくように思われるのである。この国の音楽教育は『自国の文化の継承と発展』という、教育の大原則を、合理的に確実に実践した成功例であり、教育が民族文化に直接貢献した事例でもある。もう 30年も前のことだが、今も英雄広場に立つイシュトバーン一世(ハンガリー建国の父)の誇らしげな銅像が目に浮かぶ。

バルトーク編:ハンガリーとスロバキヤの民謡より
  Haschemann,Liebesklage,Lustiger Tanz(GS)

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