私の小学生の頃は第二次世界大戦の真っ最中ということもあって、郷土の偉人についての説話をよく聞いた。私が住んでいたのは、岐阜県の東部、今の岩村町富田という所だったので、岩村が生んだ郷土の偉人として、佐藤一斎や下田歌子の話を聞いた覚えがある。
小学校2年生の時に尋常小学校が国民学校と改称され、この年に隣りの飯羽間の小学校と合併して、大成国民学校となり、その翌年に二つの小学校の中間点の分根というところに統合校舎が建てられた。たしか、3年生の時に、ここへ移ってきたような覚えである。
昔は校歌がある学校は少なかったと思うが、当時、富田小学校には音楽の得意な和田三里先生がおられ、新しい学校の開校に合わせて校歌が作られたようである。この校歌の歌詞は有名な郷土出身の下田歌子という人が作ったものだということは聞いていたが、曲は誰が作ったのかは聞いていなかった。歌詞は下田歌子が学校へきて作ったということを聞いた覚えがあるが、調べて見ると、歌子は昭和11年に亡くなっているので、このことは事実ではない。この歌詞は当時の先生が郷土の偉人を身じかなものにし、こういう人たちを目ざして勉学に勤しませたいという願いで、歌子の詩の中からふさわしいものを選ばれたものと考えられる。下田歌子作詞 大成国民学校校歌
雪霜の 深き山辺に生いてこそ
よき木とならめ 小松若松曲については、和田先生に伺ったところ、当時の岐阜師範学校の訓道だった河野信一先生が作曲されたもので、和田先生が、当時、入手困難だった食料を携えて河野先生の所へ出かけ、この詩に作曲してもらったということである。
音楽を教えるようになってから、ふと昔のことが蘇り、この校歌の旋律を思い出してみると、平井康三郎の『平城山』を思わせるような、日本的な曲が浮かび上がってきた。楽譜に書いてみると、単純な4分の4拍子の曲だが、時代を考えると、なかなか味わいのある曲がつくられたものだと思った。
過日、小学校の同総会にはじめて出席し、50年ぶりにこの校歌を歌ったが、同級生の歌声は、日本的な味わいをもった、ゆったりしたもので、当時の国民学校の先生が、この詩に感じられた音楽のイメージが、そのまま伝えられているよような気がして感慨無量だった。
ところで、戦時中の郷土の偉人というと、当然軍人が尊重されたが、特に富田出身に陸軍大臣だった大島健一氏、この人の長男でドイツ大使の大島 浩中将という人がおられたので、この人たちの話をよく聞いたし、大島家の前を最敬礼をして通って行ったことを覚えている。
今までは郷土のことを振り返る心の余裕などなかったが、過日の同窓会での昔話を契機に、この頃はふとこの地のことを思い出すことがある。今は高校時代に話を聞いた佐藤一斎のことを勉強してみたいと思っていが、その理由は、儒学者として生涯を学問一筋に生き、生涯学習を身をもって実践した郷土の偉人に学ぶことが、これからの時代に大切なことと考えるからである。一斎については、まだ詳しく学んだわけではないが、次の二つの言葉が強く印象に残っている。小にして学べば 即ち壮にして為すことあり
壮にして学べば 即ち老いて衰えず
老いて学べば 即ち死して朽ちず
春風を以て人に接し、秋霜を以て自らを粛しむ郷土の偉人について学び、生き方を振り返ってみたいと思うこの頃である。
河野信一作曲・橋詰律也編曲『大成小学校校歌』
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