《音の回想21》音痴は遺伝するか

 音楽大学でフルートを専攻している長女は、幼児期から小学校の頃までは音感の発達が遅れていたのか、日頃口ずさむ歌の音程がはずれていたようである。ようであると書かなければならないのは、その頃の私は、家庭を顧みる余裕もなく仕事に没頭していて、朝早く家を出て、夜遅く帰宅し、日曜日も職場へ出かけることが多かったからである。
 家内はこのことが相当苦になっていたようで、後になってから、『ほかに困ることはないけど、N子の歌が下手なのは、私の家の血筋が影響したのではないかと心配した。』と話してくれたことがった。、家内の父親は歌を歌うということは殆どなく、希に出てくる歌声はメロディーにならないらしい。しかし、この父親の孫からはほかにも一人、音大で音楽を専攻するものが出てきて、これはどうも影響がなさそうである。
 私は自分の子どもの音楽教育にとりたてて関心を持っていたわけではないが、家では時々教え子たちがやってきて演奏する色々な楽器の音が聞こえていたし、確か娘が幼稚園(4才)の時に、中津川でホームアンサンブルの会に出席してタンブリンをやらせたことがり、この時、私が娘の頭に触って曲の出だしを合図してアンサンブルに参加させたのが最初の人前での演奏であり、その後もリコーダーの4重奏(ソプラノ、アルト、テノール、バス)で家族出演の機会が2、3度あったが、小学校5年生の頃には、この娘が中心になって母親を教えながら演奏会に参加するまでになった。
 私の記憶ではリコーダーの世界的名手であるF・コンラートを迎えた中津川でのホームコンサート、講師を依頼されたのを機に、家族旅行を兼ねた札幌での演奏などが、わが家の主な発表の場だった。それからは子どもの受験勉強やクラブ活動等と重なって、家族で演奏する機会はなくなった。
 ところで長男の方はどういうものか、小さい時から音楽的な感覚に恵まれ、リコーだーを吹いても、すぐにメロディーを覚えて暗譜で合奏に参加していたし、自分の好きな電気工作以外は、あまり努力せずにある程度はこなしていた。しかし娘の方は幼児期に病弱だったことが原因で、何をやっても見劣りすることを知っていて、一時は反抗的なそぶりを見せることもあった。しかし、フルートを吹くことで、兄よりすぐれた自分を発見し、これが自信につながっていったようである。
 私はもともと、子どもに専門的にフルートをやらせるという考えはなかった。昔、自分がやっていて、楽器も家に揃っていたから、一度、子どもにも体験させてみようという軽い気持ちで、二人の子どもにフルートを与えた。ところが、どういうものか兄の方はなかなか音が出せず、妹の方は簡単に音が出せた。妹にとってみれば、兄より優れた自分を発見したことが、大きな自信になったわけである。結局、このことが長女がフルートを専攻するきっかけになったのである。
 今では、この専門分野に生き甲斐を持ち、必死になって練習に励んでいるが、そのきっかけはささいなことにあり、高校、大学、大学院と専門分野のよき師よき環境に恵まれて専門性を極めてこれたのである。アンサンブルを楽しむという幼稚園から小学校時代のささやかな音楽環境が幸いし、ふとしたきっかけから音楽の道に入り、今では自信を持って専門分野の道へ羽ばたこうとしているのである。
 私は音痴というものは遺伝するものではないし、もともと存在するものではなく、様々な条件の中で、子どもの正常な音感の発達が妨げられたまま、改善されない状態にある時、親や周囲が音痴と思い、本人もそう思い込まされているだけのことだと思う。いつだったかテレビで極め付の音痴と言われる学生を短時間に直す音楽の先生の指導を見たことがあるが、これは早い時期に音楽的な体験を持たせるほど有効だと思った。(平成3年3月)

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