井沢修二 (1851〜1917)の略歴等

高遠町に保存中の井沢修二の生家
井沢修二

 明治、大正の近代教育の開拓者。嘉永4年(1851年)6月、信濃の国に生まれる。高遠の藩校進徳館にて漢学と洋楽を学び、明治3年(1870年)大学南校(東京大学の前身)の貢進生に選ばれる。明治5年〜6年文部省勤務。明治7年(1874年)3月 愛知師範学校長となる。その翌年には文部省からアメリカ留学を命ぜられ、ハーバード大学などで教育学や理科学などを学んだ。この留学時代にベル(Alexander Graham Bell-1847〜1922)から視話法を、マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校のメーソン(Luther Whiting Maeson-1828〜1896 )から音楽の基礎や教育法を学んだ。明治11年(1878年)に帰国。その後、体操伝習所主幹、東京師範学校長、音楽取調掛(明治20〜23年 東京音楽学校長)を歴任し、教育行政官として教員養成、体育教育、音楽教育、盲唖教育など、日本では未開拓だった教育の分野を勢力的に開拓した。こうした活動の中で明治23年(1890年)には「国家教育社」を創設して教育勅語の普及、徹底をはかった。明治28年(1895年)には日本の領土となった台湾に渡り、民政局学務部長として最初の植民地教育行政に手を染め、その基礎を作った。明治30年(1897年)にこの職を辞した後は勅撰議員となり、又、高等教育会議議員として学制改革にあたった。明治32年(1899年)には東京高等師範学校長に任ぜられたが、翌年病気のため退官した。それ以後、明治36年(1903年)に東京小石川に「楽石社」を起こして視話法による吃音矯正の社会事業に着手し、晩年を過ごした。
 
井沢修二の葬儀には、山形有朋、大隈重信、後藤新平、原 敬、高橋是清、西園寺公望等、政府の要人の殆どが出席していたと伝えられている。
 音楽教育については、ペスタロッチの教育思想が根柢にあったと考えられるが、具体的には、ペススタロッチと彼の教育思想に基づいた音楽教育を実践したプファイエル・ネーゲリとの共著「唱歌教授法」を参考にしたといわれている。初期の指導方法としては基礎練習(リズム練習と音階練習)を十分行ってから唱歌の指導に入るようになっていたようである。

《明治の唱歌集に登場する井沢修二が作曲した唱歌》

・花さく春 (花さく春の あけぼのを 早疾く起きて…)   明治20年

・紀元節 (雲に聳ゆる高千穂の 高根おろしに草も木も…)  明治21年

・来れや来れ (来れや来れや いざ来れ 皇国を守れや…)  明治21年

・かり (かり かり わたれ 大きなかりは 先に 小さな…)   明治25年


 尚、明治17年から唱歌に登場した「仰げば尊し」は井沢修二、神 真行、奥 好義 のいずれかが作曲したという説と外国の賛美歌等からもってきたメロディーという説があるが、当時の記録を調べてみると後者が有力のように思われる。又、明治時代に「幼稚園唱歌」や「中等唱歌」も作成されている。

 井沢修二のことを研究した著書にには 上沼八郎著「井沢修二」吉川弘文館がある。  

 


 

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