小学唱歌等の歴史について
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《 明治の小学唱歌 》 政府は明治4年に文部省を創設、翌5年の学制公布で小学校(4年間)が開設されたが、唱歌は当時の実情を考慮して、当分は之を欠くという注釈がつけられていた。この理由は当時は指導者の確保が容易ではなかったことと、日本の伝統音楽や伝承されてきた民謡やわらべ歌の中から
、小学生の唱歌教材にふさわしい ものをみつけることが困難だったことである。一方ペリー来航以降の諸外国の軍楽隊が儀式等で演奏する西洋音楽の効果は絶大であり、諸外国に追いつき、富国強兵を目指した明治の小学校の教育の中での唱歌の指導は、とりあえず、歌う教材も含めて西洋の音楽教育を模倣することから出発することになった。 |
《大正から第二次世界大戦終了までの唱歌等について》 |
昭和に入っても15年までは唱歌の編集方針は今までと変わっていないが、作曲について見ると、この間はドイツ留学から帰った信時潔がドイツ留学留学から帰って東京音楽学校作曲科の中心として活躍する時代の彼を中心とした作品(兵隊さん、電車ごっこ、一番星みつけた、太平洋等)。続いてドイツ留学から帰った下総皖一が同校の中心として活躍する時代の作品(蛍、牧場の朝、たなばたさま、野菊、母の歌)が大きな流れになっていて、この他にも順番に、「時計台の鐘」、「牧場の朝」、「椰子の実」等の名作が含まれている。 |
「唱歌」が系統的段階的に作られているのは明治の創成期に伊沢修二がアメリカ留学から学んだペスタロッチ方式を取り入れたことによるが、明治初期の唱歌は歌詞も音楽も必ずしも児童にふさわしいものばかりでなく、難解で教訓的な歌詞が批判を浴びて修正されたり、音楽的に魅力がないものは自然に淘汰され、明治の後半からは歌詞も曲も我が国最高の実力者が児童の発達段階を考慮して作成するようになって、この伝統が昭和17年の最後の唱歌「母の歌」や「スキーの歌」まで続けられてきたことで、数々の名曲が生まれていったわけである。 「唱歌」は教科書という特性もあって、必ずしも時代に敏感に反応するものではないが、昭和からのラジオ放送による子どもの歌、歌謡曲、軍歌(含小国民軍歌)等は敏感に時代を反映したものであったことはいうまでもない。しかし、昭和17年の最後の唱歌「母の歌」 に至っては作詞者の意図しない 軍事色が投入されていたと考えられる。このことについては、後日「母の歌」を追加した時に具体的に解説する予定である。 |
《 次期追加予定曲
》 島崎藤村作詞 大中寅二作曲 「椰子の実」、時雨音羽作詞 平井康三郎 「スキー」 文部省唱歌 「菅公」、堀沢周安作詞 文部省唱歌 「いなかの四季」 近藤朔風訳詩 ウエルナー作曲「のばら」、里見 義作詞 アイルランド民謡 「庭の千草」 文部省唱歌 「あおげば尊し」、葛原しげる作詞 梁田貞作曲 「とんび」 |